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長く生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ [月々の法語]

長く生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ
May we completely abandon birth-and-death forever and reach the Pure Land of naturalness.
高僧和讃 善導讃第15首

 浄土七高僧の第5、中国の善導(ぜんどう)大師を讃えた和讃のうちの一つです。全体は…

 五濁悪世のわれらこそ
 金剛の信心ばかりにて
 ながく生死をすてはてて
 自然の浄土にいたるなれ

…となります。意味としては
「この濁りきった悪世に生きる私たちこそ
 (阿弥陀仏への)揺るぎない信心ひとつで
 生き死にの苦しみから永遠に解き放れ
 阿弥陀仏の極楽浄土に到達をするのだ」となります。

 「五濁悪世」という言葉が出て参りました。仏教では、お釈迦さまが亡くなって500年間(諸説ありますが)を「正法の時代」とし、正しく修行すればお釈迦さまと同じ悟りが得られるとしました。
 次に「像法の時代」千年がやってきます。お釈迦さまの教えと修行方法は伝わっているが、正しい悟りの得られない時代と言われます。
 そして最後に「末法の時代」1万年がやってきます。もう、お釈迦さまの教えしか伝わっておらず、仏教が衰えてゆく時代です。末世とも言い、「世も末だ」という言葉はここから来ているようです。

 お釈迦さまは約2500年前の方ですから、親鸞聖人の時代も現代も末法のまっただ中です。末法時代に現れる世の中の状態が「五濁」です。
 それぞれ「劫濁・社会的な悪の増大」「見濁・思想の乱れ」「煩悩濁・煩悩が盛んになる事」「衆生濁・人々の資質が低下する事」「命濁・人々の寿命が短くなる事」となります。
 今の社会を見ていると、どれもうなづける事ではないでしょうか。5つ目の命濁だけは長寿国の日本ではピンと来ませんが、上記4つの事柄が無ければ人々はもっと心穏やかに、もっと長生きが出来るはずです。

 そして3月の言葉にも出て来た「自然(じねん)」がまた出て参りました。この言葉を「しぜん」と読む場合は「人間の手が加わっていない野生の動植物」という意味で使われます。真宗で言う「じねん」は「人間の思い計らいを越えた阿弥陀仏のはたらき」となります。


 さて、「金剛の信心」という言葉に注目をしたいと思います。なにか力強く、いかにも前向きな言葉です。しかし皆さんは「金剛の信心」を持っていらっしゃいますか?私は「持っています!」と自信をもって言えません。確かに、仏教の教えに深くうなずいていますし、真宗の僧侶である事に迷いはありません。とは言え「金剛の信心」とまで言われると、自信がないのです。

 しかしこういった思いは、親鸞聖人も抱いていました。歎異抄の第9条で師弟のこんな会話があります。
弟子「念仏を申していても、躍り上がるような喜びも湧いて来なければ、早く浄土に往きたいという思いも湧いてきません。」
親鸞「あなたもそうでしたか。実は私も同じ思いを抱いていました。しかし、だからこそ浄土へ往く事は確実なのです。本来なら嬉しさが湧き上がり、早く浄土へ往きたいと思うべきなのに、その思えないのは煩悩が邪魔をしているからでしょう。しかし煩悩を消し去る事が出来ない、私たちの様な者のための阿弥陀如来の救いなのです。逆に、喜びが溢れ出るようであれば自分には煩悩が無いのだろうかと不審に思うでしょう。」


 先日鎌倉の建長寺で坐禅体験をしてきました。そして3年間の修行に明け暮れる修行僧たちを見て参りました。確かに坐禅は優れた修行方法ですし、私も引き続き関心を持っています。そして厳しい修行を3年間続ける修行僧たちには本当に頭が下がります。
 しかし修行の目的は悟りを開くことでしょうから、修行期間を終えるのは年で区切るのではなく、悟りを得たか否か、という点で判断されるべきでしょう。短期間で悟りに至る人もいるでしょうし、悟りが開けないのであれば何十年も修行しなければならないでしょうし、結局最後まで悟りに到達できない人もいるでしょう。

 少なくとも私は修行に耐えられるかどうかわかりませんし、悟りを得る事が出来るとも明言できません。自分では「金剛の信心」を得ることもできません。しかし真宗での「金剛の信心」は、自らの中から湧いてくるのではなく、阿弥陀如来からいただくものです。自分お手製ではなく阿弥陀さまお手製、メイド・イン・極楽浄土なのです。
 自分で築いた信心は不確かかもしれませんが、阿弥陀さまからいただいた信心は「金剛の信心」と言えるのではないでしょうか。

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コメント 2

白牛

ありがとうございます。

阿弥陀さまからいただいた信心だから安心、ご信心というと聞いたことがあります。実際の座禅を通して味わいも深まられたようですね。

「命濁・人々の寿命が短くなる事」
ある先生が
「子供が子供らしくなくなってきている」
ということもそれであるのではないかとおっしゃってみえました。
そこから考えると、年寄が年寄らしくない、父が、母が・・・。
ということもいえるのでしょうか?担う命(めい)を果たすことが出来ない、中途はんぱ、人間喪失ということも含まれるのかなあとか考えております。
by 白牛 (2009-06-11 15:50) 

ボーズ

>白牛さん
なるほど!自分で練り上げた信心なら「ご」を付ける必要はありませんものね!いただいたものだから「ご信心」と言うのか…メモらないと(笑)。
by ボーズ (2009-06-11 21:21) 

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