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智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり [月々の法語]

智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり

It is by the power of Dharmakara’s Vow that we realize the Nembutsu that is wisdom.

正像末法和讃 第34首


 今月も親鸞聖人最晩年に記された「正像末法和讃」です。先月も申しましたが、「正像末」とは、お釈迦さまが亡くなってから、教えや悟りが時代によってどう変遷してゆくか、その時代を示しています。全文は…

  智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせるなり

  信心の智慧なかりせば いかでか涅槃を悟らまし


…となります。意味としては

「阿弥陀仏の智慧に基づいた念仏を得るのは

 阿弥陀仏がまだ法蔵であった頃に建てられた誓願の力による

 もしこの智慧に基づく信心が無かったなら

 どうして涅槃の悟りが得られようか」となります。


 先程「正像末」は時代の事だと言いましたが、お釈迦さまが亡くなって500年を正法の時代、その後1千年を像法の時代、さらに後1万年を末法の時代となっています。親鸞聖人の時代も私たちの時代も、すでに末法の世の中とされ、お経だけは残っているけれど、正しく修行する事も出来ず、正しい悟りを得る事も出来ない時代です。ではその時代に生きる私たちはどうしたらよいのか、という事が問題になります。


 菩薩、というと有名なのは観音菩薩や地蔵菩薩、文殊菩薩に弥勒菩薩などがいらっしゃいます。菩薩はインドの言葉で「ボーディ・サットバ」といいます。ボーディは菩提、つまり悟りという意味で、サットバは人とか人々という意味です。ですから菩薩は「菩提(悟り)を求める人(人々)」となるわけです。ちなみにこちらも数多くいらっしゃる仏・如来ですが、こちらは「菩提(悟り)を得た人(人々)」と言えます。


 つまり、菩薩は仏になる修行中の方だと言えます。とは言っても単なる修行中の未熟者というわけではなく、菩薩と呼ばれる方はすでに仏になるだけの条件を備えている。しかしあえて仏にならずこの世に残り、人々に教えを伝える役割を担っている、慈悲の化身でもあります。



 大無量寿経というお経に記されている物語があります。お釈迦さまの時代より遥か昔、世自在王仏という仏さまがおりました。ある国の王様が世自在王仏の説法を聞き感動し、王の立場を捨てて世自在王仏の弟子となり、法蔵と名告ります。悟りを求める仏弟子ですから、法蔵菩薩とよばれます。


 その法蔵菩薩は他の仏さま方に優れた仏国土を建立したいと願い、5劫の間考え抜き、48の誓願を建て、無限に等しいほどの期間修行をして、ついに阿弥陀仏となり、極楽浄土を建立しました。

 5劫と言いましたがこれは時間の単位で、1劫は「40里四方の石に、天女が100年に1度降りて来て薄衣でスッとなでる、これを繰り返して石が削れて無くなってもまだ1劫は経たない」と言われています(他にも説はありますが)。要するに、想像もつかないほど長い時間、という事です。ちなみに面倒くさい事を「億劫」といいますが、これは「1億の劫が必要なほど長い時間が掛かる事=面倒くさい事」という意味から来たそうです。それほどの時間をかけて法蔵菩薩は私たちの救いの道を考え、また修行をされてついに極楽浄土が完成したのです。


 また48の誓願といいましたが、真宗では特に18番目の願を重視していて「私(法蔵)は、私の国(極楽浄土)に生まれたいと念じて私の名を呼ぶ者を必ず浄土に迎えとる」と記されております。



 さて、和讃に「信心の智慧」という言葉があります。この信心の智慧とは、何が私たちにとって本当に大切なのか、それを教えてくれるものだと思います。


 先日こんな話を聞きました。あるお寺で毎朝住職が掃除をしていると、いつもジョギングをする青年が通る。顔見知りになってある日「毎朝たいへんですねぇ、何か目標があって走っているのですか?」と尋ねると青年は「健康になって長生きするためです」と答える。住職はさらに「長生きして、何をするんですか?」と問うと青年は考え込みながら走り去って行ってしまった。そして次の日からジョギングを止めてしまったんだそうです。


 しばらくしてそのお寺の法話会に、ひょっこりその青年が顔を出して「長生きして何をするのか、今まで考えたこともなかった。それを聞いてくれた和尚さんの話を聞けば何かわかるかもしれないと思ってやってきました」と言い、それから聴聞に通うようになった…。



 私たちは、もちろん健康を求めます。また、見た目の良さやお金も求めます。しかし、闇雲にそれを求めて生きても、それが果たして人生の目的として充分なのでしょうか。小学生に「何歳まで生きたいですか?」「いま何が欲しいですか?」と聞けば、「100歳まで!」「1億円欲しい!」と言うでしょう。その子に「100歳まで生きて何をするの?」「1億円持ったらどうするの?」と聞けば答えに詰まるでしょう。


 私ももちろん健康や見た目の良さや目先のお金に左右されて生きています。ただ、それ以上に大切なものがあって、それを求めて生きているのだ、とも思っています。そして「大切な何か」を求めて生きる私たちは、悟りを求める菩薩だと言えるのだと思います。


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