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釋迦は慈父 弥陀は悲母なり [月々の法語]

釋迦は慈父 弥陀は悲母なり
Shakyamuni is our loving father and Amida, our compassionate mother.
『唯信鈔文意』より

 2月から5月までの4ヶ月間、月々の言葉は『唯信鈔文意』という書物からの出典となります。また「~~文意」というのは先に書かれた書物の解説書と言う意味ですので、 唯信鈔文意は『唯信鈔』という書物の解説書となります。

 この『唯信鈔』を記したのは、法然上人門下の高弟で親鸞聖人の先輩に当たる聖覚法印という人物です。また親鸞聖人はもうひとり隆寛律師という先輩も尊敬しており、その書物の解説書も記されています。
 親鸞聖人は、法然上人という全幅の信頼を置く師匠を得て、また2人の尊敬する先輩がいらっしゃいました。これは、僧侶としても人間としても本当に幸せな事だと思います。(以上先月と同文)


 さて、今月のことば「 釋迦は慈父 弥陀は悲母なり」ですが、以前「慈悲」という言葉をお話しした事があると思います。よく「慈悲深い」などと使われますが、慈と悲に分け、慈は子に喜びを与えたいと願う父のこころ、悲は子の苦しみを取り除きたいと願う母のこころ、と言われます。この慈と悲を一切衆生に対して抱き続けて下さるのが阿弥陀仏である、とも言います。

 ですが今月の言葉では、お釈迦さまが慈を現し阿弥陀仏が悲を現すとなっています。唯信鈔文意ではこの言葉に続けて「われらが父・母、種々の方便をして無上の信心を開き起こしたまえるなりと知るべしとなり」となっています。
 意味としては「私たちを一人子のように思っていて下さる釈迦仏と阿弥陀仏は、様々な手だてを使って私たちに無上の信心を与えてくれようとしていますよ、その事に気づきなさい」となりますでしょうか。

 さて、慈という字は心の上に茲がついています。茲はふえる、という意を表し、子どもを増やし愛することを示しています。非という字は心の上に非がついていて、非は分けるという意を表し、心が引き裂かれる事を示しています。
 また英訳の compassionate は「同情心」と訳されます。同情と言っても「可哀想にねぇ」などと言うのではなく、相手の苦しみを自分の苦しみとするのが、本当の同情心だと思います。

 金子みすゞさんの詩に「さびしいとき」というものがあります。
「さびしいとき」
 私がさびしいときに よその人は知らないの
 私がさびしいときに お友達は笑うの
 私がさびしいときに お母さんはやさしいの
 私がさびしいときに 仏さまはさびしいの

 私は普段生活していて、ふとさびしさを感じる事がありますが皆さんはいかがでしょうか?別に一人の時とは限らず、家族や友達と一緒のときでも感じる事があります。
 そんな時、全くの他人は気づくわけもなく通り過ぎるでしょう。友人も気づかずに笑っているでしょう。お母さんであればさびしげな子どもの様子に気づいて優しくしてくれるかもしれません。そして仏さまは、私と同じさびしいこころになって、寄り添ってくれる…そんな詩です。

 子どもに対する親の愛情は、父親よりも母親の方が強い、とよく言われます。これは人間が生物として、男性は子どもを作る事、女性は子どもを育む事を目的としているとしているのでしょうから、ある意味仕方のないことかもしれません。

 今では、子どものいる夫婦が別れる時、母親が子どもを引き取る事が多いようです。しかし以前はそうではなく、金子みすゞさんの時代は母親には親権すらありませんでした。お芝居の中でも「十月十日、お腹を痛めたのはウチやのに…親権は父親にしかない」というセリフがあります。

 離婚直後は娘を「預かる」事を許されたみすゞさんでしたが、すぐに「娘を引き取りにいく」という連絡がありました。そして当時の法律上、それは拒否のできない事だったようです。
 そして悲という文字通り、心を引き裂かれる思いを持ったみすゞさんは、いのちを懸けて抗議をする、という事を選んでしまったのです。

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さみ辛抱

喜びの中にもいつもどこか寂しさを感じてしまいます。
幸せとは自分自身の感覚で、吹けば飛ぶような不確かなもの。
実態のないもの。
寂しさもまた同じく実態はないけれど、常駐している気がします。
誰もが限りある命であり、肉親や友との別れの時がくるから?
「わたしがさびしいときに 仏さまはさびしいの」・・・実感します!
by さみ辛抱 (2010-04-25 01:03) 

ボーズandカナコ

>さみ辛抱さん

コメント有難うございます。
寂しさの因を「誰もが限りある命であり、肉親や友との別れの時がくるから?」と書かれていて、その通りかもしれないと思いました。

お釈迦さまは「独生独死 独去独来」とおっしゃっています。私たちのいのちとは、本来そういったものなんでしょうが、この事実に耐える精神を持つ人は多くはないでしょうね。

だからこそ人は、なにかに寄り添っていて欲しい、と願うのでしょうか…。
by ボーズandカナコ (2010-04-25 08:07) 

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