2011年5月号 [和庵だより]
◇七百五十回遠忌◇
本山で四月六日〜十六日までの十日間、親鸞聖人の七百五十回遠忌法要が無事に勤まりました。
五十年に一度の法要に私も妻も出番を頂き、嬉しさと緊張感を抱きつつ出発、七日の午後に本山に到着しました。その日は朗読劇「恵信尼ものがたり」を公演する新築の会館ホールで、音響や照明の具合を確かめ、リハーサルを行いました。
昼間は大勢の参拝客で賑わう本山と寺内町ですが、夜はひっそりと静まり返ります。私たちも本山の宿泊施設で、ひっそりと緊張しながら過ごしました。
翌日は四月八日、お釈迦さまの誕生日でもあり日曜日という事もあり、参拝者も大勢でした。午後三時からの「恵信尼ものがたり」にも百六十名ほどの方がおいで下さり、非常に熱心にご覧頂きました。
本山で四月六日〜十六日までの十日間、親鸞聖人の七百五十回遠忌法要が無事に勤まりました。
昼間は大勢の参拝客で賑わう本山と寺内町ですが、夜はひっそりと静まり返ります。私たちも本山の宿泊施設で、ひっそりと緊張しながら過ごしました。
翌日は四月八日、お釈迦さまの誕生日でもあり日曜日という事もあり、参拝者も大勢でした。午後三時からの「恵信尼ものがたり」にも百六十名ほどの方がおいで下さり、非常に熱心にご覧頂きました。
☆仏教の言葉☆
「冥土」(めいど)
上段の続きですが、四月九日の十一時からのお日中法要の後、ほんの十五分の時間ですがお説教のお役目を仰せつかりました。事前に法話の題名を提出するように言われており、「冥土と浄土」としました。
九日は月曜日、それほど参拝客は多くないかと思っていたら、各地からの団体参拝が重なり御影堂はかなりの賑わいに。そんな中、お説教用の高座に初めて登るという緊張感も加わって記憶がうろ覚えですが、こんなお話しをさせて頂きました。
人が亡くなった時によく「冥福を祈る」という言葉が使われます。丁寧に見えますが、これは「冥土での幸福を祈る」という意味です。冥土とは「冥(くら)い土(くに)」、つまり死者の行く、地の底の暗黒の世界です。
念仏者が往くのは冥土ではなく浄土です。そして親鸞聖人は浄土を「無量光明土」とも説かれました。私たちが往くのは暗黒の世界ではなく、無量の光の世界に往くのです。
「冥土」(めいど)
上段の続きですが、四月九日の十一時からのお日中法要の後、ほんの十五分の時間ですがお説教のお役目を仰せつかりました。事前に法話の題名を提出するように言われており、「冥土と浄土」としました。
九日は月曜日、それほど参拝客は多くないかと思っていたら、各地からの団体参拝が重なり御影堂はかなりの賑わいに。そんな中、お説教用の高座に初めて登るという緊張感も加わって記憶がうろ覚えですが、こんなお話しをさせて頂きました。
人が亡くなった時によく「冥福を祈る」という言葉が使われます。丁寧に見えますが、これは「冥土での幸福を祈る」という意味です。冥土とは「冥(くら)い土(くに)」、つまり死者の行く、地の底の暗黒の世界です。
念仏者が往くのは冥土ではなく浄土です。そして親鸞聖人は浄土を「無量光明土」とも説かれました。私たちが往くのは暗黒の世界ではなく、無量の光の世界に往くのです。
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