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2012年6月の法語 [月々の法語]

ただ如来にまかせまいらせ おわしますべく候う

Simply entrust yourself to Amida.

『親鸞聖人御消息』より


 今年のカレンダーの言葉は、親鸞聖人の様々な著作から抜粋されています。今月は親鸞聖人の御消息、つまりお手紙からのお言葉です。


 親鸞聖人は長い間関東で布教活動を行った後、60歳を過ぎて京都に戻り執筆活動にいそしみます。その京都の聖人の元に、関東の弟子たちがある時は直接訪れて質問をし、ある時は手紙で質問をしました。質問状に対し親鸞聖人は返書をしたため、このお手紙が多く残っています。


 また当時の手紙は公の手紙と私信に分類され、私信は後世まで残る事は少ないようですが、公信は関係者に見せるために保存をしておいたようです。つまり関東の弟子の疑問に対し、親鸞聖人が返事のお手紙を書かれる。そしてその手紙を、たとえば念仏道場で寄り合いがある時になど皆に見せ、あるいは読み聞かせるという事があったようです。このお手紙の末尾にも「この文をもって、人々にも見せまいらせさせたまふべく候」と書かれています。

 また弟子たちからの質問状は残っていませんが、親鸞聖人の返書は弟子たちからすればお師匠さまからの特別なお手紙です。ですから今でも残っているのでしょう。


 さて、この消息は教名房という弟子からの質問に対する返書のようです。質問文はありませんが、返答内容から「阿弥陀仏の誓願と、阿弥陀仏の名号、どちらを重視すれば良いのですか?」といった質問だったと思われます。


 阿弥陀仏の誓願とは「一切衆生を救いとりたい」というものです。そしてその方法として阿弥陀仏の名(名号)を称える、つまり「南无阿弥陀仏」が示されているわけです。


 お返事の中で親鸞聖人は「なぜこのような疑問を持つのか分からない」と手厳しく記しています。また「誓願を離れた名号もなく、名号を離れた誓願もない。同一のものである。」「誓願を不可思議と信じ、名号を不可思議と信じ、そこに自らの計らいを差し挟んではいけない。」そして文末に今月の言葉「ただ如来にまかせまいらせ、おわしますべく候う(訳:ただ阿弥陀仏におまかせしなければなりません)」と記されています。

 手厳しく始まったお手紙が、非常に丁寧なお言葉で結ばれているのが印象的です。事実上は弟子だといっても、親鸞聖人は「弟子ひとりも持たず」とおっしゃった方です。敬意を持って接せられていたのでしょう。



 真宗の教え、他力の道ではこの「自らの計らいを差し挟まない」ことが大切とされています。阿弥陀仏に全てを任せる。任せてしまえば良いのですから簡単なようですが、自我とエゴとに凝り固まった私たち凡夫が、全てを任せる事など生易しい道ではありません。


 先日、比叡山での回峰行体験をして参りました。本物の千日回峰行の厳しさに比べれば、万分の一・億分の一にも満たない体験でしかありませんが、それでも良い経験でした。


 回峰行の修行は、念仏道と違い自力の計らいを突き詰める道です。千日回峰を終えた行者(正確には七百日を終え、堂入りを終えた行者)は阿闍梨と呼ばれ、「生身の不動明王」と尊崇の念を受けます。この七百日までが自分のための修行、そこから先の三百日は衆生救済の化他行となります。


 自らが不動明王となり、修行で得た功徳をもって人々を救う存在。実際に比叡山で阿闍梨さまの後について歩くと、あちこちで人が出てきて阿闍梨さまに礼拝をしている姿を見ました。それだけの尊敬を受ける存在なのです。


 でも実際の阿闍梨さまは、超能力者になったわけではありません。威厳に満ちていますが、話しかけてみれば気さくに穏やかに返事をして下さいます。自力を究めたその先に、気負い無く全てを任せられる、そんな境地に達しているのではないかと感じました。


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