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2013年7月号 [和庵だより]

◇師父の死◇
 
 『なごみ庵だより』でもよく取り上げさせて頂く西來武治師が、六月十一日、往生の素懐を遂げられました(お亡くなりになりました)。親鸞聖人と同じく、数え九十歳のご生涯でした。

 今年三月の昼法話会にご出講頂き、多くの方に私の尊敬する師とご縁を結んで頂きました。一時間ほどご法話を頂き、その後の茶話会もたっぷりと歓談の時を過ごすことが出来ました。四月号(八十五号)にはその時の感想を転載させて頂いています。
 
 昨年から体調を崩しておられ、最近は「命を終えた時について相談に乗って欲しい」と言われており覚悟はしていたものの、最期は思いがけず早足でした。
 師として尊敬し、慈父のように慕っていた方を失い、空虚な心のままご遺志に従って通夜・葬儀のお手伝いをさせて頂きました。

 思えば今年の一月、兄と慕う蒲池龍眼師が早世されました。
 大切な方を失うたび、こう思います。
「娑婆で頑張っている浦上くん、彼は私の縁深い人だ」と浄土で他の仏さま方に自慢をさせてやるのだ、と。
 そしていつか自分も浄土に往った時「尊い生涯を過ごしたね」と迎えて頂くのだ、と。


☆仏教の言葉☆
 「往生の素懐」


 真宗では人が亡くなる事を「往生」と言います。「困り果てる」という意味もありますが本来は仏教語で「浄土へ往き、仏として生まれる」という意味です。
 また「素懐」は六十九号でも取り上げましたが、「かねてからの願い」という意味になります。ですので「往生の素懐を遂げる」とは「仏の浄土に生まれたいという願いが達成される」という意味になります。

 では、往生の素懐を遂げられるのは、どういった方なのでしょうか。社会的に大きなな功績を残した方でしょうか? 厳しい修行を成し遂げた宗教者でしょうか? 長寿を全うした方でしょうか?

 いえいえ、そうした立派な方ばかりではないのです。なぜなら「往生の素懐」は私たちの願いでもありますが、実はそれ以上に阿弥陀仏の「一切衆生を救い取りたい」という願いでもあります。

 立派な人もそうでない人も、長寿の方も短い生涯だった方も、生まれ方、生き方、亡くなり方を問われずに往く世界が、阿弥陀仏の西方極楽浄土なのです。

 先に往かれた方は仏として私たちを見守り、私たちもいつか大切な方の仏と成る。絶える事のない、いのちの繋がる世界がそこにはあるのです。

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コメント 3

長さん

 なるほど、浄土真宗のお経を旧盆の頃唱えると、御先祖
さん達が、どこかに急に、御隠れになっているように、見せ
かける事がありますね。それは、我々子々孫々に、お経の
威力で、彼らが、阿弥陀如来様に付き従って、遠い浄土に
旅立たれたように見せかけ、阿弥陀経の有り難さを教える、
教育者としての御立場からの活動なのでしょう。
 そこで、そういう事象に、たま~に遭遇すると、御先祖さん
たちは、いつも我々の知性レベルを、心配して見ていてくだ
さる、有り難い存在だと、御先祖様の気持ち、心が、つくづく
暖かく感じられます。思えば浄土教も、もともと日本人の生
み出したものでは無くて、当時は、我が国よりずっと進んだ、
大陸のより進んだ文化の伝来吸収だったのですね。つまり
我々は根本的に、キャッチアップ文化の国に住んでいるの
ですよね。そこで、こういう先祖の姿は、「いかにも我々の
御先祖」、「近い存在」を印象づけるものです。こういう御先祖
様と稀に接するにつけ、皮肉ですが、本当にお経で、西の
遠い所に成仏されるのではなくて、これからもずっと、我々
子孫のそばにいて、我々とともにあって助けてほしい存在
だと感じられたりするのが、日本人独特の感性、心なの
かもしれないと思います。
by 長さん (2013-07-22 16:16) 

ボーズandカナコ

>長さんさま
そうですね、言葉にしても文化にしても、外来のものが多いです。
今でも日本人は、新しいものを吸収することに長けている、と私は思っています。
by ボーズandカナコ (2013-07-23 10:02) 

長さん

そうですね~。私なんかは、浄土真宗のお経は、文書として
棒読みするだけで、御坊様のように、節をつけて唱える事
はできない、物まね小僧なんですが。
by 長さん (2013-07-23 10:37) 

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