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2015年9月の法語 [月々の法語]

煩悩の嵐の中にも 念仏において本願の呼び声が聞こえてくる
Even amidst the tempest of self-centered desires, one can hear the calling of the Primal Vow in the working of Namo Amida Butsu.
正親 含英(おおぎ がんえい)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。9月は、真宗大谷派の僧侶で、1958〜1961年の間、大谷大学の学長を務めていらっしゃった 正親含英師のお言葉です。

 今月の言葉を見て、ちょうど1年前の なごみ庵だよりを思いだしました。昨年8月に広島で豪雨災害があったのですが、その報道の中で「過去にこの地域で起こった豪雨災害の教訓が活かされておらず、なぜ迅速に避難しなかったのか」との苦言が呈されていました。
 そんなとき浄土宗の井上広法さんが、平成10年の那須豪雨の際、その渦中にいた自身の経験を書いてくれました。 

 雷はひっきりなしに鳴り響き、停電のなか、雷光で本が読めるのではと思うほどだった。あまりの雷鳴に、部屋の中にもかかわらず、全ての金属を外した覚えがある。ただただ怖かった。
 豪雨は計り知れなく、このままこの世が沈没するのではと思うほどだった。もし避難せよと言われていたら果たしてできただろうか。十数年前の記憶を鮮明に蘇らせれば、それは難しかったのではないかと思う。

 今年も台風18号の影響で9月8日ごろから雨が降り続き、鬼怒川が決壊して大きな被害が出ています。ここ横浜もかなりの量の雨が降りましたが、被害の出ている地域では遥かに大量の雨が降り、不安で恐ろしい思いをされたことでしょう。可能な限り被害が小さく済むよう、念ずるばかりです。

 今月の言葉は、私たちの中に潜む煩悩を「嵐」と喩えています。とはいえ私たちの煩悩は、常に嵐のように荒れ狂ってばかりではいません。縁が整わなければ穏やかな時もありますが、でも決して消え去ったわけではなく、私たちの心の底でトグロを巻いているだけです。親鸞聖人も和讃で「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」とご自身の(つまり人間の)本性に触れていますが、縁に触れれば煩悩は鎌首をもたげ、暴れだすことでしょう。

 ひとたび煩悩が嵐のように暴れだせば、地鳴りのような豪雨の音、屋内でも身に付けた金属を外してしまうほどの雷鳴が響きます。私たちの生活に引き当ててみれば、突然の病気やケガ、天災や人災、そして死。そんな理不尽な出来事に出遭い、体力も消耗しきって、心も千々に乱れきった状態が、「煩悩の嵐」のまっただ中にいるということになります。

 私たちの人生は、理不尽の連続です。他人の目から見れば、それは「運が良かったね、悪かったね」という程度の話になってしまいますが、自分の身に起きれば理不尽きわまりない、それこそ「神も仏もあるもんか」という気持ちになります。
 その理不尽を「解消」するため、人間は法律を作ったり、科学や医学を発展させたり、土木工事を行ったり、あるいは兵器を造ってきました。でも、人間は新たな欲求をし続ける生き物ですから、それだけでは絶対に理不尽を「解消」することはできないのです。

 「解消」しようとする道に対して、「超える」道が仏教です。煩悩の嵐の中、私たちの耳に届き得るのはお念仏しかないのではないかと思います。むろん、念仏は呪文ではありませんから、今まで全く念仏に触れてこなかった方が突然それを称えても、目の前の問題が解決するなどということはありません。
 けれど念仏の教えに触れ、信じている人にとって、それは心強いものです。いえ、それでしか嵐を超える道はない、私にとってそれほど確かなものです。

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