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2015年10月の法語 [月々の法語]

世俗の論理の行き詰まることを教えるのが仏法
The Buddha Dharma teaches me of the impasses in secular logic.
栗山 力精(くりやま りきしょう)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。10月は浄土真宗本願寺派、福岡県の円徳寺住職、栗山力精師のお言葉です。

 この言葉は、栗山師が自坊の寺報に記した「人間として生きて行く上には、世俗の論理を無視することはできないことであろう。しかし世俗の論理の行き詰まることを教えるのが仏法なのである」という一文から採られています。

 仏教のことを「仏法」とも言います。「ブッダ(仏陀=悟った人)が説いた教え」であり「ブッダになるための教え」だから「仏教」です。またその教えは「法」とも呼ばれますので「仏法」となります。「法」の語源は「ダルマ」で「真実」を意味します。

 ちなみに浄土真宗で「戒名」と言わず「法名」と言うのは、「戒律を守れない私だけど、仏さまの法を聞き続けよう」という意思表明をした者の名前という意味です(けっして死者の名前ではありません)。

 さて、この「仏法」に対応する言葉が「世法」そして「王法」です。世法は世間一般の法則、つまり倫理や道徳のことです。「王法」は王様が決めた法則、現代で言えば法律でしょう。
 王法を守らなければ、刑務所に入れられてしまいます。世法を守らなければ、後ろ指を指される存在になります。では仏法を守らなければどうなるでしょう? 実は仏法を守ることは非常に困難なことですし、守れなかったからといって、刑務所に入れられることも無ければ後ろ指を指されることもありません。ですから普段私たちが生活する上で気にするのは、「王法>世法>仏法」ということになるでしょう。言い方を変えれば、守りやすい順番とも言えます。

 私が(あなたが、でも結構ですが)気の合わない相手と口論になったとします。その時カッとなって殴ってしまったら、王法に触れることになります。カッとなったけど手は出さずにこらえとしても、相手を罵ったりしたら世法の観点でNGになるでしょう。
 では仏法ではどうでしょうか。手も出さなかった、口にも出さなかった、心の中で「殴ってやりたい」と思ったけどグッとこらえた。王法にも世法にも触れません。しかし仏法では心の中で思っただけでも、実際に行ったと同じだとされるのです。「仏法を守るのは非常に困難」と前述したのは、これが理由です。

 「人間なんだから腹を立てることぐらいあるだろう、それもダメだなんて難しすぎる」と思われるかもしれません。でも、難しいからこそ仏教・宗教なのではないでしょうか。キリスト教にも「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」という言葉があります。これもやはり実行できないことです。 誰もが守れる内容、実践できるものであれば、それを守ったところで大した成果は得られません。困難なことだからこそ、自分を悟りに近づけてくれるのではないでしょうか。どうぞ皆さん、精進なさって下さい。

 ……とは言っても、なかなか精進できそうにありませんよね (^_^;) 
そんな私たちに開かれた道が、お念仏の教えです。自分がいかに至らない未熟な存在であるか。そこに気づいた時、自然と頭が下がる。自分への慢心や執着を手放した時にこそ見えてくる世界がある、ということではないでしょうか。

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