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2015年11月の法語 [月々の法語]

如来の本願は 称名念仏にあり
The working of Amida’s Primal Vow is in the intoning of Namo Amida Butsu.
藤元 正樹

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。11月は真宗大谷派 兵庫県の円徳寺住職 藤元正樹師のお言葉です。ちなみに10月の言葉を発した栗山力精師のお寺も、偶然ですが円徳寺という名前です。


 非常にシンプルなお言葉で、浄土真宗の教えが端的に述べられています。つまり「阿弥陀如来が一切衆生を救いたいとお建てになった本願は、私たちが念仏を称える事で救われていく道をお示しになったことである」ということです。

 しかしシンプルすぎる教えは、かえって疑問を生む事があるのではないでしょうか。例えば、「念仏を称えればいいと言うが、何回称えればいいのだろうか? 多い方が良いのだろうか? 少なくても大丈夫だろうか?」という疑問や、「どういう心持ちで念仏を称えればいいのだろうか? やはり真剣に集中して称えるべきだろうか? それとも他の事を考えながら称えてもいいのだろうか?」といった疑問です。


 最近「安心論題」というものについて学んでいます。読み方は「あんしん ろんだい」ではなく「あんじん ろんだい」で、浄土真宗の教えの上で誤解しやすい部分、押さえておくべき部分について徹底的に論じられたものです。

 たとえば第5章は「信心正因」と題されています。これは、「阿弥陀仏を信じて念仏を称えれば救われる」という言葉について、信じる事と称える事、どちらが大切なんですか? という問題について考えたものです。長くなるので詳細は省きますが、ここでは信心が大切だとされています。信心が因となって救いが成立し、それを喜び感謝して出てくる声がお念仏であるという捉え方です。


 ところが今月の言葉は「如来の本願は称名念仏にあり」とあります。これだけを見ると信心より念仏の方が大切なようですが、ふと英訳を見てみると「working」という語に目が行きます。なぜここに「work=働く」の現在進行形があるのでしょうか?

 それは阿弥陀如来というものが決して現実的な存在としてあるのではなく、大切な真実を私たちに伝えんがための方便であって、私たちがその真実に向き合う時=真実が私たちに「はたらきかけている」時だということです。

 真実はいつも変わらずそこにあるのですが、普段私たちはそれを見ようとしません。しかし様々な縁が重なって真実に目が向く時を「如来が働く時」と表現するのではないでしょうか。如来に「はたらき」かけられて念仏が口から出てきますので、やはり信心が因ということになるのです。

 如来、本願、念仏…それらを別々に考えると様々な疑問が湧いてきます。でも本質的にはそれらはひとつのもので、あれこれ考えるべきものではないのでしょう。法然上人が「愚者になりて往生す」とおっしゃった言葉が耳に響いてきます。

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