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2017年11月の法語 [月々の法語]

信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ
It is by entering the wisdom of the entrusting heart that we become person who respond in gratitude to the Buddha’s benevolence.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。

また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

釋迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心は得しめたる
信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ

<ことばの意味>
釋迦弥陀:お釈迦さまと阿弥陀さま
願作仏心:仏に成ろうと願う心 菩提心

<現代語訳>
お釈迦さまと阿弥陀さまの大慈悲によって、私たちは大菩提心を頂くことができた。
これは阿弥陀さまより賜った信心の智慧であって、この信心の智慧を得れば仏恩を感じ、これに報いようとする身になるのである。

<私のあじわい>
親鸞聖人はとても言葉を厳格に、また大切に扱う方だったようで、ご自身で書かれた文に「左訓」と呼ばれる註釈を丁寧にお書きになりました。
この和讃にも左訓が書かれていますが、特に3行目「信心の智慧にいりてこそ」の左訓が興味深いものになっています。
「弥陀の誓いは智慧にてまします故に、信ずる心の出で来るは智慧の起こると知るべし」と書かれていて、3行目本文よりもずっと長くなっています。

信心というと、「鰯の頭も信心から」や「盲信」という言葉もあるとおり、何かよく分からないけれど、とにかく拝んでおこうというような、知的な行為でないように捉えられることがあります。しかし親鸞聖人にとって信心とはそのような曖昧模糊としたものではなく、はっきりと眼が開き、迷いが晴れたような状態と受け止めていらしたのでしょう。
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万行寺の本多靜芳師は「信心の語源はサンスクリット語の『チッタ・プラサーダ』で、三昧や禅定という意味がある。言い換えると、心を静める、浄化するという意味で、いわゆる『信じる』という意味はない」と仰っていました。
ここからも信心とは、「何やらよく分からないものを拝む」という姿勢ではなく、本来は非常に知的な行為なのだということが分かりますし、親鸞聖人はやはり言葉の意味を正確に捉えていたことが伺い知れます。

ではその智慧というのはどういうことなのでしょうか。
私は宗派を問わず、仏教で説いている根本は「縁起・智慧・慈悲」だと思っています。
もう少し丁寧にお話ししますと、「この世の全ては互いに繋がり合っているという『縁起』の道理があり、それを『智慧』の眼で見据え、関係する全ての対象に『慈悲』が湧き起こるもの」と捉えています。

以前に「それを現代的に伝えるとどういう言葉になりますかね?」と問われてスッと頭に思い浮かんだのが「相関・俯瞰・共感ですかね」という言葉でした。言った後に気づいたのですが、「〜〜カン」と韻を踏んでいて、知人からも覚えやすくて分かりやすい、と褒めて頂きました。

縁起も智慧も慈悲も日本人には耳慣れた言葉ですので、はっきりと意味は分からなくても何となく有り難そうな言葉だと頷いてしまいがちだと思います。
けれど僧侶は、仏教用語の持っている雰囲気に依存するのではなく、しっかりと意味が伝わるように説明する必要があるのだと思います。そうしてこそ「鰯の頭も信心から」ではなく「信心=チッタ・プラサーダ」を共に味わえるのではないでしょうか。

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