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2018年11月の法話 [月々の法語]

今年は親鸞聖人のお言葉を、弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
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第七条は比較的短いので、まず全文を見てましょう。

念仏者は無碍の一道なり。
そのいはれ、いかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。

「無碍」とは、妨げるものが無い、という意味です。
念仏を大切にする人々には妨げが無い、という一文で始まります。

その理由として、念仏者は天神・地祇が敬い、魔界・外道もさまたげとはならない、と書かれています。
また、自らが為した罪悪も報いを恐れる必要がなく、どのような善行も念仏には及ばない、と続きます。
これは一体どういうことでしょうか?
そんなバカな! と思われたかもしれません。


21世紀になって10年以上が過ぎ、平成も終わろうとしています。
しかし現代においても、私たちは目に見えないものに左右されて生きています。
たとえば占い、たとえば大安や仏滅、たとえば厄年、たとえばスピリチュアル……

科学の発展した現代でさえそうなのですから、親鸞聖人の生きた平安鎌倉時代はどれほど生活が左右されていたことでしょうか。2012年の大河ドラマ『清盛』では、身分の高い登場人物が病気になると、隣の部屋に大勢の僧侶を招いて回復を祈る儀式を執り行うシーンが映されていました。

その時代に親鸞聖人は、「目に見えないものに恐れおののくことはないのですよ、南無阿弥陀仏と称える皆さんは阿弥陀さまに守られているのですよ」と説かれたのです。
その言葉は、不安のなかに生きる人々をどれだけ勇気づけたでしょうか。

仏教で「三施」という言葉があり、そのひとつに「無畏施」があります。
「畏れ(おそれ)」を「無」にする施しです。
また仏教者(法華信者)である宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に、「南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い」とあります。

「そんなバカな!」と感じたかもしれないこの条ですが、実は仏教の大切な要をおさえているのです。


追記
「天地の神々が念仏者を敬う」という部分ですが、仏教では天地の神々もまだ迷いの世界にある存在とされています。
一方、仏教の最終目的は、悟りを開いて迷いから解脱した「仏」に成ることとされています。

念仏を称えた者は阿弥陀仏に救いとられ、必ず悟りにいたる「不退転」という状態になります。
ですので、まだ迷いから解脱できていない神々から念仏者が敬われるということになります。

追記2
「外道」という言葉が出てきます。
現在では悪逆非道な人に対して、「この外道!」などと言いますので(実際に言ったことはありませんが)悪い意味の言葉になっていますが、もともとはそれほど悪い意味ではありません。

お釈迦さまの時代は、従来のスタンダードな宗教であるバラモン教から離れ、自由な宗教者や思想家が新しい教えを説く時代でした。
その中で、お釈迦さまと弟子たちから見た「外(ほか)の道」を「外道」と呼びました。ですので必ずしも「悪」や「よこしま」「過ち」といったニュアンスの言葉ではありません。

追記3
親鸞聖人の時代、不安の中に生きる人々をどれだけ勇気づけたでしょうか、と書きましたが、それは当時の人に止まる話ではありません。
今の時代でも未来であっても、人間が生きている限り欲求は尽きることはありませんし、目に見えないものに振り回されることが止むことはないでしょう。
そういった不安を払拭するのが、この親鸞聖人の言葉であると思います。

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あっちゃん

阿弥陀様ー!大好き!!
by あっちゃん (2018-11-18 13:04) 

ボーズandカナコ

私も大好きです。
阿弥陀より
by ボーズandカナコ (2018-11-19 08:51) 

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