2019年4月の法語 [月々の法語]
真実の信心は かならず名号を具す
True and real entrusting to Amida is unfailingly accompanied by saying the Name.
2018年1月から『歎異抄』を題材として法話会を進めてきましたが、2019年4月から真宗教団連合の法語カレンダーに戻ります。
今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれていますが、4月は親鸞聖人の主著である『顕浄土真実教行証文類』からの一節です。
前後の大まかな内容は…
至心・信楽・欲生の三心は、言葉は異なっているが、その意味はただひとつ「真実の一心」である。それを「金剛の真心」とも言い、また「真実の信心」とも言う。
「真実の信心」には名号を称えるというはたらきが備わっているが、名号を称えていても必ずしも「真実の信心」が備わっているとは限らない。
「一心」が大切なので天親菩薩は『浄土論』の始めに「我一心」とお説きになった。
…となっています。
<私のあじわい>
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」のお念仏を大事にします。
1日に何回お称えしなさいとか、大きな声で称えなければならないという決まりはありませんが、とにかくお念仏が大切ですよ、と説いています。
先日、大切な恩師のお通夜に参列をしました。僧侶として尊敬する方で、私が今の道を歩んでいるひとつの原点となった方でもあります。
寺院の住職の通夜ですので、参列者にも多くの僧侶が並びます。だからでしょうか、あちこちで「なまんだぶ…」「なんまんだぶつ…」とお念仏の声が聞こえます。別に「皆さん一緒に称えましょうね」というタイミングではなく、思い思いに口から漏れ出しているのです。
これを耳にしながら私は、なかなかお念仏が出てこない自分に気がつきました。もちろん「皆さんご一緒に」とか「それでは合掌して」という時には出てくるのです。でもそれはクセのようなものではないか、格好がつくから称えているのではないか、と自問自答します。
それに比べ、周囲で息をするようにお念仏をしている方々はどうなのだろうか、と考えてしまいます。真実の信心が備わっていて、本人も気づかぬほど自然にお念仏を称えているのであれば素晴らしいことですが、外から見てそれは分かりません。
単に口グセになっっているだけかもしれない、または、そうすることが僧侶らしいから称えているのかもしれない……
恩師の通夜で余計なことを考え、思いは千々に乱れたまま通夜の読経が始まりました。もちろん普段慣れ親しんだお経ですが、手元に経本が無いので暗誦になります。しかも節が少し違うので余計なことは考えられず、自然と無心になっていきます。
そこでようやく自分の思い計らいを手放し、「我一心」という状態になることができたのです。そうまでしないと一心になれない自分を、恩師は無言で諭してくれたのでした。
True and real entrusting to Amida is unfailingly accompanied by saying the Name.
2018年1月から『歎異抄』を題材として法話会を進めてきましたが、2019年4月から真宗教団連合の法語カレンダーに戻ります。
今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれていますが、4月は親鸞聖人の主著である『顕浄土真実教行証文類』からの一節です。
前後の大まかな内容は…
至心・信楽・欲生の三心は、言葉は異なっているが、その意味はただひとつ「真実の一心」である。それを「金剛の真心」とも言い、また「真実の信心」とも言う。
「真実の信心」には名号を称えるというはたらきが備わっているが、名号を称えていても必ずしも「真実の信心」が備わっているとは限らない。
「一心」が大切なので天親菩薩は『浄土論』の始めに「我一心」とお説きになった。
…となっています。
<私のあじわい>
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」のお念仏を大事にします。
1日に何回お称えしなさいとか、大きな声で称えなければならないという決まりはありませんが、とにかくお念仏が大切ですよ、と説いています。
先日、大切な恩師のお通夜に参列をしました。僧侶として尊敬する方で、私が今の道を歩んでいるひとつの原点となった方でもあります。
寺院の住職の通夜ですので、参列者にも多くの僧侶が並びます。だからでしょうか、あちこちで「なまんだぶ…」「なんまんだぶつ…」とお念仏の声が聞こえます。別に「皆さん一緒に称えましょうね」というタイミングではなく、思い思いに口から漏れ出しているのです。
これを耳にしながら私は、なかなかお念仏が出てこない自分に気がつきました。もちろん「皆さんご一緒に」とか「それでは合掌して」という時には出てくるのです。でもそれはクセのようなものではないか、格好がつくから称えているのではないか、と自問自答します。
それに比べ、周囲で息をするようにお念仏をしている方々はどうなのだろうか、と考えてしまいます。真実の信心が備わっていて、本人も気づかぬほど自然にお念仏を称えているのであれば素晴らしいことですが、外から見てそれは分かりません。
単に口グセになっっているだけかもしれない、または、そうすることが僧侶らしいから称えているのかもしれない……
恩師の通夜で余計なことを考え、思いは千々に乱れたまま通夜の読経が始まりました。もちろん普段慣れ親しんだお経ですが、手元に経本が無いので暗誦になります。しかも節が少し違うので余計なことは考えられず、自然と無心になっていきます。
そこでようやく自分の思い計らいを手放し、「我一心」という状態になることができたのです。そうまでしないと一心になれない自分を、恩師は無言で諭してくれたのでした。
横を”よこ”と訓読みしたのは、愚禿鈔で親鸞聖人が最初
ですか。読み”よこ”は仏教語と辞書に出てます。(長さん)
今回の法話会とは別の題材ですが。貴族の指した
昔の将棋との関係に関連して、御尋ねします。
たまたま、”横超越を浄土真宗の往生。
竪超越を在来仏教の往生。”等と、愚禿鈔で親鸞聖人
が、説いた説明がもとで、鎌倉時代の漢字の横が、
読みヨコサマから、ただのヨコに、日本語が変わる
きっかけになったという話が、かなり分厚い辞書の
一部に出ています。が、そのような説話が、存在する
というのは本当なのでしょうか。
中将棋の駒に、日本将棋には無い、横行、竪行
(と、これは有る、角行)というのが有るのですが、
竪行の方だけですが、お遊びなので、洒落で貴族が
鎌倉時代に、横行に合わせて作ったような気がします。
御存知でしたら、別の機会にでも御紹介よろしく
お願いします。
by df233285 (2019-04-21 19:20)
長さん
「横」を「よこさま」ではなく「よこ」と読んだのが親鸞聖人かどうかは存じ上げません。
というか、お恥ずかしながらそれを問題として考えたこともありませんでした。
将棋の用語とも関連があるのかもしれませんね、問題提起をしていただき有り難うございます。
by ボーズandカナコ (2019-04-22 10:54)
さいしょのコメント文献名等がでたらめ(長さん)
愚禿鈔ではなくて、肝心要の”教行信証”が
出典です。平にお許しください。なお、
横超越の越は余計。横超(よこXX)で、
他力本願とイコールの意味だと聞いてます。
by df233285 (2019-04-22 18:45)
そうでしたか、訂正有り難うございます!
by ボーズandカナコ (2019-04-22 22:41)