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「自死・自殺に向き合う僧侶の会」会報の巻頭言 [その他色々]

私が共同代表の一員を務めさせていただいている「自死・自殺に向き合う僧侶の会」、今年も12月1日の自死者追悼法要が無事に終了しました。昨年に続き200名ものご遺族とともに、亡き人を思い手を合わせる時間となりました。

会では毎年この時期に会報を発行しています。発足後数年してから始まりましたので、今回で第7号。
表紙は共同代表が持ち回りで巻頭言を書くのですが、初めて私に順番が回ってきました。

普段寺報などで文章を書き慣れていたり、法事の法話をし慣れていたりはするのですが、この会での文章や法話は他とは全く違う雰囲気があり、緊張感が漂います。

それでも何とか書き上げ、また会の仲間で芥川賞作家の石井さんに添削していただき(裏ワザ)、なんとか形になりました。
会報の画像と、下に全文を掲載いたしますので、お目通しいただければ幸いです (−人−)

会報第7号 浦上Ver2.jpg


「解き、ほぐれる」

 夏が過ぎ、秋を迎えるころ、私たち「自死・自殺に向き合う僧侶の会」の会合は緊張感を増していきます。宗派も住んでいる地域もバラバラの私たちは全員一緒に顔を合わせることが難しく、そのためもう秋口から12月の追悼法要の準備を始めるからです。

 1998年に日本の年間自死者数が3万人を超え、2003年には34,427人もの方が自ら命を絶たれました。その後、さまざまな努力や施策がなされ、2012年には15年ぶりに年間3万人を下回り、昨年2018年は20,598人と減少が続いています。

 一方、毎年12月1日に開催される「いのちの日 いのちの時間 東京」の参列者は、2007年の第1回から増減をしつつ、昨年初めて200名を超えました。年単位の自死者数は減っているとはいえ、「自死遺族」そのものは増え続けているのだと改めて思い知らされ、私たちの力の及ばなさを痛切に感じます。

 冒頭に述べた、私たちが抱く緊張感の要因のひとつは、200名に達する参列者おひとりおひとり、全員が喪主と言える立場にあることだと気付きました。私たち僧侶は普段ご法事をお勤めします。でも、たとえば20名の方が参列されていても、故人とそれほど近しくなかった親戚などもおられるでしょうから、喪主やそれに近い立場の方はほんの数名です。


 それに対して「いのちの日 いのちの時間 東京」では、そこにいる全員が喪主の気持ちでその場にいらっしゃいます。深く大きな苦しみを抱き、また亡き方への追悼の念を胸に、手を合わせておられるのです。

 1年に何人の方が亡くなろうと、その数字が増えようと減ろうと関係ありません。ご遺族にとって亡くなった大切な人は数万分の1という数字ではなく、人生の大きな部分を占める人、あるいは人生の全てと言っても過言ではない人であったのです。

 だからこそ、参列者の背中や横顔を見て私たちは身の引き締まるような思いを覚え、微力ではあっても一所懸命に追悼法要をお勤めさせていただいております。そしてそこには法要を執り行う側と参列する側という垣根は無くなり、ご遺族も私たち僧侶も、そして亡き方も共に仏さまの慈悲のまなざしに見守られながら、そっと手を合わせているように感じられます。


 日が傾きつつある師走の午後に始まった法要が茶話会を経て閉会し、参列者が会場を後にするころにはすっかり日も暮れ、街には灯がともります。

 帰路に着く皆さまの背を見送りつつ、秋口から抱いていた私たちの緊張感も、白い息とともに微かに解きほぐれていきます。そして、皆さまの両肩にのしかかった計り知れぬ重荷もまた、ほんの1グラムでも軽くなり、苦しみや悲しみが少しでも解きほぐれていってほしい、そう心から願うのです。


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