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2020年2月の法語 [月々の法語]

生のみが我らにあらず 死もまた我らなり

It isn’t life alone that makes up what we are. Death also is part of us.
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今年の法語カレンダーは、僧侶であるなしに限らず広く念仏者の言葉が引かれています。

2月は明治期に活躍した真宗大谷派の僧侶、清沢満之師の言葉です。



現在TBSで『病室で念仏を唱えないでください』という連続ドラマが放送されています。マンガが原作で、真言宗の僧侶で救急救命医の主人公が活躍する物語です。

 

私も何回か医療関係者に「病院に坊さんが法衣姿で来たらどう思いますか?」と聞いたことがありますが、だいたい皆さん「ギョッとする」なんておっしゃいます。おそらく病院と僧侶は生と死、真逆のものであって、病院に坊さんなど来てもらっては「縁起が悪い」というイメージなのだと思います。

 

ちょっと脱線しますが、ドラマは真言宗の僧侶が主人公なので、本来は「病室で真言をとなえないでください」とするべきなのでしょうが、一般の人に分かりやすくするために「念仏」としたのでしょうね。

 

もうひとつ、特に浄土真宗の場合、お念仏を口にすることを「称名」と呼びますので、ドラマのタイトルとは違い、念仏は「称える」の文字を用います。

ちなみに日蓮宗のお題目は「唱題行」と呼び「唱える」の方を用いるそうです。

 

 

さて、今月の言葉は、死にまつわる格言の中で、私が最もよく人に伝えているもののひとつです。ワークショップ「死の体験旅行」を毎月1回から多い時で5~6回ほど開催していますが、その時に古今東西の様々な死に関する格言を紹介しています。

 

その中でも最も登場回数が多いのが、この清沢満之師の言葉と、親鸞聖人が詠んだとされる「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかわ」という詩歌です。

 

他にも…

「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」道元禅師

「先ずは臨終のことを習ろうて、後に他事を習ろうべし」日蓮聖人

「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」蓮如上人

「明日死ぬと思って生きなさい、永遠に生きると思って学びなさい」マハトマ・ガンジー

「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」哲学者 ハイデッガー

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」スティーブ・ジョブズ

…といった言葉を紹介しています。

 

 

さて、今月の言葉には続きがあります。

「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり」というものです。

 

私たちは普段、「生」が続くことを前提に暮らしています。しかし本当は、明日の朝に目が覚める保証などありません。今月の言葉通り、「死もまた我ら」であり「生死を並有」しているのです。

 

けれど私たちは「死」を頭の外に追いやり、来月の予定を入れたり、年末には来年の手帳やカレンダーを買ったりしているのです。もちろんそれが悪いというわけではなく、人間として当たり前の感性だと思います。

 

けれど、死に関する格言が古今東西にこれほどあるということは、死について考えるのは非常に大切なことだということです。いつもいつも考えていたら滅入ってしまうかもしれませんが、時に死を頭の中に入れて自分の人生を考えることは健全なことだと思いますし、自分の人生を誠実に歩むことに繋がると思っています。

 

 

冒頭で「病院に坊さんなど来てもらっては縁起が悪い」と言いましたが、縁起とは「因縁生起」という仏教用語が略されたものです。この因縁生起は、「原因があり、様々な縁が重なって、結果が生起してくる」という意味の言葉です。

 

ここに生死をあてはめると、生まれてきたことが因、年を取ったり病気になったりすることが縁、そして結果として死が生起します。よく死を「万が一」という表現をしますが、本当は「万が万」なのです。

 

皆さんも時には「死」について考える時間を持ってみてはいかがでしょうか。


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