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2019年1月の法話 [月々の法語]

今年は去年に引き続き、親鸞聖人のお言葉を弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
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第八条も七条と同じく短いので、まずは全文を掲載します。

念仏は行者のために、非行(ひぎょう)・非善(ひぜん)なり。
我がはからいにて行ずるにあらざれば非行といふ。
我がはからいにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行・非善なりと云々。

「非行」は現代の読み方ですと「ひこう」となり、悪い行いを指します。「非行少年」なんて言葉もありますね。
ですが仏教的には「ひぎょう」と読みます。行、つまり修行ではないという意味です。
続く「善」は、仏教的な善い行いを指します。「善根功徳を積む」といった言葉もありますが、いわゆる「徳を積むような善い行い」を指します。

親鸞聖人は、お念仏はそれを称える者にとって、行でも善でもない、と仰るのですが、これはそれまでの仏教の常識からすると正反対のことを言っています。
つまり元々の仏教では、お念仏を称えること、特に数多く口にすることは修行でもあり善い行いでもあると捉えられていたのです。
ではなぜ親鸞聖人は「そうではない」と仰ったのでしょう?

「はからい」という言葉が続けて2度、出てきます。
自分の意志や判断という意味ですが、「お念仏を称える」ことを広い広い視点で見てみると…
人間としてこの世に生まれ、仏教に出逢う縁があり、こうして念仏を称えているのは、全てが自分の「はからい」であろうか?
いや、そうではない。仏さまの「はからい」によって、この私の口から念仏が漏れ出てくるのだ。
親鸞聖人はそう捉えられたのでしょう。

また後半に「他力」という言葉が出てきます。
色々な使われ方をする言葉ですが、仏教、特に浄土教では「阿弥陀如来のはからい」を「他力」と言います。
特に親鸞聖人においては、上記のような「自分のはからい」が入る余地の無いほど「他力」を重視し、そのあり方は「絶対他力」と呼ばれます。

親鸞聖人は、なぜここまで「他力」を徹底したのでしょうか。
その理由のひとつは、お念仏に「自分のはからい」がほんの少しでも混じると、人はそれを切っ掛けとして、お念仏を自分のものとして握りしめてしまう傾向がある、と危惧されたのではないでしょうか。

つまり、「何年前からお念仏をしている」「1日に何回のお念仏を称えている」「人より大きな声でお念仏を称えている」などと、人と優劣を比べたり、他者をやり込める道具にしてしまう。
そういったことを嫌い、避けるために、「念仏は行者のために非行 非善なり」と仰ったのではないでしょうか。

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