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2019年9月の法語 [月々の法語]

わがこころよければ往生すべしとおもうべからず
You should not think that you deserve to attain birth because you are good.
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今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、9月は親鸞聖人のご消息(お手紙)からの一節です。

<解説>
長い手紙で、親鸞聖人が83歳の時に笠間(現 茨城県笠間市)の門弟から寄せられた質問に答えたものになります。まず最初に自力の往生と他力の往生の違いについて記されています。

そして今月のカレンダーの言葉が含まれる「しかれば、我が身の悪ければ、いかでか如来迎えたまわんと思うべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、悪きものと思うべし。また我が心良ければ往生すべしと思うべからず、自力の御はからいにては真実の報土へ生るべからざるなり」という部分に繋がっています。

また、なぜ他力で往生が成されるのかが説かれ、日本や中国の高僧、釋尊の言葉が根拠として上げられ、そしてその後、他力の信心を得た者を褒め称える内容にと繋がっています。


<私のあじわい>
手紙の中盤、今月の言葉が含まれる部分を現代語訳すると、「自分が悪い存在であっても阿弥陀如来が迎えに来てくれないと思わなくても良い、凡夫はすべからく煩悩を具足する身であるのだから。そしてまた自分が良い存在だから往生できると思ってもいけない。自分の力では真実の浄土に行けるはずはないのだから」となります。

皆さんは、極楽浄土に仏として生まれることにテストがあるとしたら、自分は100点が取れそうだと思われますでしょうか? それとも0点だと思われるでしょうか?

親鸞聖人は「自分が悪い存在であっても、阿弥陀如来が迎えに来てくれないと思わなくても良い」と仰います。当時の人はどう生きたかによって死後に往く世界が違うと捉えており、良い事をすれば阿弥陀如来が迎えに来てくれると信じていました。またどれほどの善行をしたかによってその迎え方は九つに分かれると考え、駅名にもなっている「九品仏」はその思想から来ています。

ただ親鸞聖人は、善行をするどころか悪事しかできなかったとしても、阿弥陀さまが迎えに来てくださらないと悲観しなくて良いのですよ、と説かれます。その理由として「人は皆、尽きせぬ煩悩を身に備えているのだから」と仰います。

そしてまた逆に、「自分が良い存在だから往生できると思ってもいけない」とも説き、「自分の力では真実の浄土に往けるはずはないのだから」と理由を述べています。

極楽浄土という場所はどうやら広いようで、その中心は「真実の報土」と呼ばれ、外れの方は「辺地」と呼ばれます。あまり現実の場所のようなイメージを持つべきではありませんが、「人間は煩悩を備えているので、浄土の辺地にしか生まれることができない」と親鸞聖人は説いています。

なぜ親鸞聖人はそのように説かれたのでしょうか? 一所懸命に努力すれば浄土の中心に生まれ、悪いことをすれば浄土の僻地に生まれてしまうのですよ、と言った方が分かりやすかったのではないでしょうか?

そこには、親鸞聖人の人間観があるのではないかと思います。
いくら善良に生きていこうと思っても、様々な条件や環境に左右されて思う通りに生きられないのが私たちです。結果的に素晴らしいことをした人物も、多くの縁に支えられて結果が生じたに過ぎない、と親鸞聖人は捉えているのではないでしょうか。

何か事件や事故が起きると、報道番組でマイクを向けられた人やインターネットに書かれる意見は、「被害者やその家族の身になれば、犯人は厳罰に処してほしい」という論調が多くなります。

とんでもないことをしでかした人を許しておけない、という気持ちは痛いほど分かりますが、そこに犯人の側に立つ意見はほとんど見られません。もしそのような意見を出そうものなら、犯人と同じように批難されかねません。

ですので私もあまり声を大にしては言えないのですが、世間から指弾される犯人に対して「ああ、なぜこのようなことをしでかしてしまう人生を歩まざるを得なかったのだろうか」と悲しい気持ちになることがあるのです。

そこまで大きな事件や事故までいかなくても、私たちは皆、完璧に生きられているわけではありません。

私が携わる「自死・自殺に向き合う僧侶の会」で往復書簡という活動があります。希死念慮者や自死遺族と手紙を通じて相談を受けるというものです。

以前、同じ班で活動した先輩僧侶は、悩みを抱え希死念慮を持つ方から長い間相談を受け続けていました。その方は小さな過ちを犯してしまったのですが、それ以降社会から向けられる冷たい視線に苦しめられ続け、自分を責め続けていました。
その方に先輩僧侶がかけた言葉に私はハッとさせられました。
「褒められたことではありませんが、責められることでもありません」というものです。これは私自身にかけられた言葉のようだ、と感じたのです。

常に人から褒められるような毎日を送れているわけではないのは、自分自身が一番よく知っています。しかし、ほとんど誰もが同じように日々を送っているのではないでしょうか。ですので、褒められはしなくても責められるほどでもない、というこの言葉が心に染みたのだと思います。

常に100点を目指さなくても、まあ50点や60点の時があってもいいじゃないか。そう思うことができれば、少し肩の力を抜いて生きていくことができるのではないでしょうか。

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