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2020年3月の行事について  [その他色々]

新型コロナウイルスの感染拡大を受け、なごみ庵の行事は以下のような対応とさせていただきます。

【中止】
・3月6日(第1金):イキイキ長いきの会 14時
・3月13日(第2金):法話会 13時・19時

【未定】…3月15日に判断し、早めの寺報・HP・Facebookページにてお知らせいたします。
・3月20日(第3金):写経会 10時半・15時
・3月22日(日):春彼岸法要 13時
・3月27日(第4金):笑いヨガ 10時半

4月以降の予定については、随時判断しお知らせをさせていただきます。
行事ご参加希望の方は、事前にHPやFacebookページをご覧いただいたり、お電話やメールで当庵までお問い合わせください。

HP https://753an.blog.ss-blog.jp
FB www.facebook.com/753an
電話 045-491-3909
メール bouzu@sd5.so-net.ne.jp

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2020年3月号 [和庵だより]

◇ 40ヶ月分のおやつ ◇

なごみ庵では2016年6月から「おてらおやつクラブ」という社会活動に参加しています。奈良県の浄土宗のお寺で始まったもので、お寺にお供えとして上がるお菓子や果物を、何か問題を抱えていたり困っていたりする家庭(母子家庭が多いそうです)や、あるいは児童支援団体などにおすそ分けをしています。

単なる食料支援というだけではなく、お菓子を手渡しする顔の見える関係性を作り、本当に困った時に声をかけてもらいやすくするという目的もあります。2018年にはグッドデザイン賞、しかもNPO法人として初&商品でなく活動として初の大賞を受賞し、注目を集めています。

なごみ庵も2016年にこの活動に参加することを決めましたが、関西から始まったものですので当時は関東に被支援希望者や団体があまりありませんでした。他の地域への支援でも良かったのですが、できれば地元の方へ直接お菓子を渡したいと思い、まずは神奈川区役所へ相談に。

そこから社会福祉協議会を紹介され、その施設で活動をしていた学習支援団体にお菓子をお渡しすることになりました。その後しばらくして、外国に繋がりのある子どもの学習支援団体にもお菓子をお渡しすることになり、現在2団体と繋がりをもっています。

お供えとして上がったお菓子や、あるいは募金箱から費用を賄い、月に1度持参しています。ささやかな活動ですが3年半ほど経った昨年秋、社会福祉協議会から「表彰式のご案内」という手紙が届きました。社会福祉のために活動する個人や団体を、年に一度表彰しているのだそうです。
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そのために活動していたわけではないのですが、そうして評価していただけることを嬉しく思いました。
表彰式の当日。他にも多くの個人や団体が表彰されていて、普段は見えないけれど社会にはまだまだ暖かい気持ちが満ち満ちているのだな、そう感じました。


◎ お 知 ら せ ◎

※新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、急きょ行事を中止する場合があります。その時はFBやHPにお知らせを出しますので、どうぞお出かけ前にご確認ください。

◎春のお彼岸法要 3月22日(日)13時
先月お知らせの通り、お彼岸の法要をお勤めいたします。法要のあと、坊守による絵本『きみはほんとうにステキだね』の朗読と法話をいたします。お子さん、お孫さんなどもぜひ一緒にご参加ください。
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◎金子みすゞ ひとり舞台 4月5日(日) 戸塚区 妙法寺にて
坊守が演じる「金子みすゞ いのちへのまなざし」を戸塚区の日蓮宗 妙法寺さまにて公演させていただくことになりました。15時から法要、16時からお芝居の上演です。
どちらかでのご参加でも両方のご参加でも大丈夫ですので、ぜひ足をお運びください!
…ですが現在コロナウイルスが世間を賑わせており、今後の状況によっては急きょ中止の可能性もあります。ですので参加ご希望の方は当庵までご連絡ください。予定変更の場合はお知らせいたします。
妙法寺:横浜市戸塚区名瀬町772−4

◎写経会 午後の部(15時) 2月より新設!
3月は20日、春分の日にあたりますので、平日は都合がつきにくい方もご参加いただけます。午前は満席状態が続いていますので、ぜひ15時からの午後の部においでください。
用紙・筆ペンはこちらで準備してありますので、手ぶらでご参加可能です。

◎3月14日より仲木戸駅が「京急東神奈川駅」に駅名変更いたします。

◦なごみ庵 オリジナルお経本&お経CD 各500円 郵送の場合は別途送料200円です
◦神之木地区センター写経会 3月3日(火)・17日(火) 18時30分
◦死の体験旅行 豊島区 金剛院:3月18日(水)・4月15日(水) 19時
        神奈川大学 生涯学習:3月12日(満席)・4月23日(木) 18時30分
◦自死遺族の集い 2月27日(木)・3月26日(木) 10時30分 築地本願寺にて

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亡き人との対話 [その他色々]

お手伝いをしているお寺の、とあるご法事。
お施主さんは年配のご婦人で、30年ほど前に壮年で亡くなったご主人と、20年ほど前に亡くなった義父の法要でした。

参列者は施主と同世代と子世代、あと小さいお子さんたちは孫世代でしょう。けっこうな大人数で、またお子さんが多いので、賑やかな雰囲気の法要になりました。
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読経をする中で、勝手な想像がふくらみました。
ご主人が亡くなった時、お子さんたちはまだ学生だったでしょう。
悲しみにひたる間もないほど大変な日々を送られたのではないか、またそんな中で義父も看取られたのではないか…(お経を読みながら余計なことを考えているのがバレますが (^_^;)  )。

お経を終えてご法話をしていると、お施主さんのホッとしたような、晴れやかな表情が目に入りました。
そこでふと、カウンセリングで用いられる「エンプティ・チェア」を思い出し、お施主さんに「亡きご主人に何か言えるとしたら、なんてお伝えしたいですか?」と尋ねました。

お施主さんは一瞬不意をつかれたような表情をしましたが、すぐに穏やかな笑顔になり、「見守ってくれたおかげで、なんとかここまでやってこられました」と応えてくれました。

さらに「亡きご主人は、どんな言葉を返してくれると思いますか?」と尋ねると、いっそう晴れやかな、それでいて少しはにかんだような表情で「まあ…よくやったなと言ってくれると思います」とお応えくださいました。


私は、「そうですね、私もご主人やお義父さん、仏さまになった方たちは『よく頑張ってくれた、苦労をかけて申しわけなかった、有り難う』と言ってくださると思います」と応えました。
ご婦人は晴れやかな笑顔のまま、目の端にわずかに光るものがありました。


感応道交(かんのうどうこう)という言葉があります。
仏さまと人との気持ちが通じ合う、という意味です。

普段は忙しく過ごし、なかなか亡き人のことをゆっくりと想う時間は取れないかもしれません。けれどご法事の場ではお身内が一緒に手を合わせ、亡き方を偲びます。

そして私のとっさの思いつきではありましたが、亡き方にどんな言葉を伝えたいですか? それに対し亡き方はどう応えてくれるでしょうか? と問いかけることで、参列者皆さんがそれぞれに深く亡き方を想ったことでしょう。

亡き方との対話を考えることで、亡き方と確かに心の通じ合う感応道交の時間を持てたのではないか。
そう感じるご法事になりました。

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2020年2月の法語 [月々の法語]

生のみが我らにあらず 死もまた我らなり

It isn’t life alone that makes up what we are. Death also is part of us.
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今年の法語カレンダーは、僧侶であるなしに限らず広く念仏者の言葉が引かれています。

2月は明治期に活躍した真宗大谷派の僧侶、清沢満之師の言葉です。



現在TBSで『病室で念仏を唱えないでください』という連続ドラマが放送されています。マンガが原作で、真言宗の僧侶で救急救命医の主人公が活躍する物語です。

 

私も何回か医療関係者に「病院に坊さんが法衣姿で来たらどう思いますか?」と聞いたことがありますが、だいたい皆さん「ギョッとする」なんておっしゃいます。おそらく病院と僧侶は生と死、真逆のものであって、病院に坊さんなど来てもらっては「縁起が悪い」というイメージなのだと思います。

 

ちょっと脱線しますが、ドラマは真言宗の僧侶が主人公なので、本来は「病室で真言をとなえないでください」とするべきなのでしょうが、一般の人に分かりやすくするために「念仏」としたのでしょうね。

 

もうひとつ、特に浄土真宗の場合、お念仏を口にすることを「称名」と呼びますので、ドラマのタイトルとは違い、念仏は「称える」の文字を用います。

ちなみに日蓮宗のお題目は「唱題行」と呼び「唱える」の方を用いるそうです。

 

 

さて、今月の言葉は、死にまつわる格言の中で、私が最もよく人に伝えているもののひとつです。ワークショップ「死の体験旅行」を毎月1回から多い時で5~6回ほど開催していますが、その時に古今東西の様々な死に関する格言を紹介しています。

 

その中でも最も登場回数が多いのが、この清沢満之師の言葉と、親鸞聖人が詠んだとされる「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかわ」という詩歌です。

 

他にも…

「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」道元禅師

「先ずは臨終のことを習ろうて、後に他事を習ろうべし」日蓮聖人

「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」蓮如上人

「明日死ぬと思って生きなさい、永遠に生きると思って学びなさい」マハトマ・ガンジー

「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」哲学者 ハイデッガー

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」スティーブ・ジョブズ

…といった言葉を紹介しています。

 

 

さて、今月の言葉には続きがあります。

「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり」というものです。

 

私たちは普段、「生」が続くことを前提に暮らしています。しかし本当は、明日の朝に目が覚める保証などありません。今月の言葉通り、「死もまた我ら」であり「生死を並有」しているのです。

 

けれど私たちは「死」を頭の外に追いやり、来月の予定を入れたり、年末には来年の手帳やカレンダーを買ったりしているのです。もちろんそれが悪いというわけではなく、人間として当たり前の感性だと思います。

 

けれど、死に関する格言が古今東西にこれほどあるということは、死について考えるのは非常に大切なことだということです。いつもいつも考えていたら滅入ってしまうかもしれませんが、時に死を頭の中に入れて自分の人生を考えることは健全なことだと思いますし、自分の人生を誠実に歩むことに繋がると思っています。

 

 

冒頭で「病院に坊さんなど来てもらっては縁起が悪い」と言いましたが、縁起とは「因縁生起」という仏教用語が略されたものです。この因縁生起は、「原因があり、様々な縁が重なって、結果が生起してくる」という意味の言葉です。

 

ここに生死をあてはめると、生まれてきたことが因、年を取ったり病気になったりすることが縁、そして結果として死が生起します。よく死を「万が一」という表現をしますが、本当は「万が万」なのです。

 

皆さんも時には「死」について考える時間を持ってみてはいかがでしょうか。


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葬儀と宗教 [月々の法語]

ネットで「日本初! お坊さんのいないお葬式」という記事を見て、「いったい、どういうことだろう??」と不思議に思いました。
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別に否定的に感じたわけではなく、葬儀は仏式だけではなく神式やキリスト教式もあり、大規模宗教団体である創価学会は以前から友人葬という形式で僧侶は呼んでいません。

また近年、特に都市部では無宗教葬や直葬が増え、僧侶のいないお葬式が珍しいわけでも新しいわけでもありませんので、記事のタイトルを不思議に感じたのです。


疑問を抱いたまま記事を読んでみると、どうやら葬儀社が明確に無宗教葬をサービスとして提供する、ということのようです。

おそらく今までは、葬儀社が自ら無宗教葬を推し出すことはなく、喪主が望めばそのように進めるという流れだったでしょうから、ひとまず納得しました。

前述の通り、今までも実質的に「お坊さんのいないお葬式」は少なくなかったわけですし、葬儀社から「こういう選択肢があるんですよ」と提示されれば、特に菩提寺などの無い方は選択しやすくなるでしょう。

ですので、こうしたサービスが生まれたことで、今までも一定数あった無宗教葬が増えていくだろうなと感じました。


しかし3つの気になる点があります。

1つ目は、辞書で「葬式」と引くと「死者をほうむる儀式、葬儀」と出てきます。また「儀式」を引くと「一定の作法・形式にのっとって行われる行事。慶弔に際して行われる行事や組織体が行う行事など」とあり、宗教と限定されてはいませんが、何らかの作法・形式に則るものとされています。

ですので、宗教であったり地域に残っている何らかの作法を用いなければ、それは「葬式」と呼べるのだろうか? という疑念です。

別に昔通りにやらなくてはならない、ということではなく、大切な身内が亡くなるという重大事をいかに受け止めるか。その方法として国や地域や民族それぞれの方法で受け継がれ蓄積された智恵がありますので、それを省いてしまって大丈夫なのだろうか? と思います。

実際に、最近の直葬増加の影響もあってか、多くのお寺が「直葬をしたのですが気持ちの収まりがつかない、お経を上げて欲しい」という相談を受けた経験があります。

私にも経験がありますので、やはり人の心は一筋縄ではいかないのだな、と感じます。


2つ目は、「お坊さんのいないお葬式」の宣伝文句に「無宗教なのに、お葬式ではなぜお坊さんを呼ぶのだろう」と書かれていたことです。
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私の記事でも便宜上「無宗教葬」という言葉を使っていますが、実は日本人のほとんどは「無宗教」ではないのです。

「え? 私は特に何の宗教も信仰していませんよ!」という方は多いでしょうが、生まれた時からお宮参り・七五三・成人式・結婚式・葬儀など、神社やお寺・教会で儀式に参加したことが無い方はほとんどいらっしゃらないでしょう。

また、家に神棚や仏壇があったり、家族や親戚の法事への出席、初詣でやお盆の墓参り、クリスマスや大晦日の鐘つきなど、こちらも全く経験が無いという方はほとんどいらっしゃらないと思います。

これらの宗教的な事柄を徹底して避けるのが本来の「無宗教」ですから、様々な宗教と上手に付き合ってきた日本人は実は「無宗教」なのではなく…

非特定宗教信仰者

なのだと私は考えています。

また、動物と人間の違いはいくつか上げられますが、「死者を悼み弔う」ことも大きな違いのひとつとして上げられます。

そして、死者を悼み弔うことは宗教の大きな要素ですので、宣伝文句の「無宗教なのに、お葬式ではなぜお坊さんを呼ぶのだろう」には違和感を感じます。

本来は「無宗教なのに、なぜお葬式をするのだろう」となるのではないでしょうか。


最後に3つ目ですが、ちょっと驚いてしまいました。
会社のホームページに「供養」という項目があるのです。
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しかし「供養」はそもそも仏教用語ですので、お坊さんがいなくては供養になりません。

矛盾が大きすぎてコメントのしようがありませんが、会社の中でどのような話があったんだろうな、と想像してしまいました。


長々と書いてきましたが、葬儀にしても埋葬にしても、選択肢が増えることは基本的には良いことだと思います。
ただ、選択肢が増えたがゆえに迷う人も増えるのも確かです。

「いざ」という時では慌ててしまいます。
ぜひ「いざ」を待たずに、家族や周囲の人と話す機会を設けてみてください。

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