10月頭より、四ツ谷の上智大学グリーフケア研究所主催 グリーフケア10回連続講座に通い始めました。
で、第1回目は同研究所の所長でシスターの高木慶子(よしこ)先生。
一般にも非常に興味のある分野のようで、300名の定員は早い段階で満員になったようで、当日も大きな教室に老若男女がギッシリ!
高木先生はとても品の良い話し方で、お人柄がにじみ出ているように感じました。
内容は、ご自身が関わった「悲嘆する人」との関わりをお話しされていて、知識ももちろん大切ですが、やはり生の実例をお聴き出来たのが貴重でした。
そのお話の中でひとつ気になる言葉がありました。それは「私はこの年まで生きてきて、本当の絶望を味わったことが無いの、神が共にあるから」というお言葉です(細かい言い回しは正確でないかもしれません)。ここでの「絶望」とは、親しい人を亡くして、関係性を喪失したことによる絶望です。
おそらくお言葉の意味としては「どれだけ大切な方を亡くしても、私には神がいて下さる。神が消滅しない限り、私が味わう絶望は最大のものではない」という事だと私は理解しました。
それはもちろん素晴らしい宗教的告白なのですが、私は自己の弱さをさらけ出す親鸞聖人の言葉に触れ慣れているからでしょうか、少し違和感を感じました。
『歎異抄』に書かれているエピソードで、親鸞聖人が弟子(唯円とされる)から「念仏を申していても喜びが湧き上がってこない」という覚悟の告白を受け「お前もか、私もなのだよ」と同じ目線に立って応える場面に、私は共感を覚えるのです。
悲しみを聞く人が、話す人と同じ苦しみを経験していなくてはならない、という事はありません。しかし同じように深い悲しみを味わった方にこそ、自らの内をさらけ出したい、と私は思いますが、皆さまはいかがでしょうか。