NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」が最終月の9月に入りました。
今さらな感じですが、主人公の村岡花子と金子みすゞの関わりについて触れたいと思います。

「関わり」と言っても、山梨生まれで東京育ちの花子と、山口県から一歩も出たことの無いみすゞは、実際の面識はないはずです。

年齢は明治26年生まれの花子に対し、明治36年生まれのみすゞ。花子が10歳お姉さんです。

本名は村岡はな(旧姓 安中、劇中では安東)で、ドラマ前半では「花子と呼んでくりょう!」と「子」に対するあこがれを見せていました。みすゞも本名は「金子テル」でしたが、手紙などには「金子テル子」と「子」を付けていました。今では逆に古風に感じる「子」のつく名前は、当時はモダンな女性の象徴だったのでしょう。


「花子とアン」の中で、主人公が関わる雑誌のライバル誌として『赤い鳥』という雑誌が一瞬映ります。この時、私たち夫婦で「あっ!」と声を出してしまいました。何故なら『赤い鳥』はみすゞが詩を投稿していた雑誌の一つだったからです。

この時から、私たちの中で別々だった花子とみすゞが繋がりました。「花子とアン」の世界の中で、みすゞが生きているんだ、そう思えたからです。そして文学少女で実家が書店だったみすゞのこと、間違いなく花子が書いた物語や翻訳した海外の作品を読んでいたでしょう。花子もみすゞの詩を目にしていたかもしれません。

そう思いながら見ていると、残り1ヶ月を切った「花子とアン」の1話1話がいっそう大切に感じられます。

写真はお芝居の小道具。みすゞの詩が初めて掲載された『童話』。