信心の人を 真の仏弟子といえり
A person of shinjin is the true disciple of the Buddha.
『親鸞聖人御消息』より
信心の人を 真の仏弟子といえり
A person of shinjin is the true disciple of the Buddha.
『親鸞聖人御消息』より
今月の言葉の出典は「『親鸞聖人御消息』より」となっていますが、『親鸞聖人御消息』という書物があるわけではありません。消息とは手紙の事で、関東から京都へお帰りになった親鸞聖人が、関東の門弟たちと遣り取りをしたお手紙を集めたものです。門弟の質問に答えるものであったり、門弟からの懇志に対してのお礼の文章も含まれます。
今月の言葉が含まれているのは、親鸞聖人が83歳の時に書かれたお手紙で、笠間(常陸国 現在の茨城県笠間市)の門弟たちからの疑問に答える内容となっています。
お手紙の中でまず、往生するためには自力と他力の道がある事をお示しになりますが、自力の道では完全な往生は難しいと説かれます。そして阿弥陀仏の本願は「よしあしき人をきらわず、煩悩のこころをえらばず へだてずして」、つまり誰もが等しく往生する道である、と続けられます。
そして本願を信じ念仏をする人=「信心の人」をお釈迦さまは「わが親しき友なり」と喜ばれたと書かれ、今月の言葉「信心の人を真の仏弟子といえり」に繋がって参ります。
さて、色々な宗教があり、それを信じる人を信者と言いますが、浄土真宗の信者にはどんな特徴があるでしょうか。それは見返りを求めない、つまり現世利益を求めない所にあります。
だいぶ前に知人から聞いた話ですが、その方が宗教の勧誘を受けると「何でも全部信じるよ、それだけ良い事があるだろうから、どれかひとつだけ信じるなんて損だ」と答えて、呆れさせて追い返したそうです。
昭和一ケタ生まれの頑固な人で、実際にはご先祖さんとお天道さまに手を合わせて、かといってそれで何か良い事がありますように、などとは願っていませんでした。
この人のように、見返りを求めない人を御利益で釣るのは難しい事です。江戸時代、幕府や各藩主が浄土真宗を非常に恐れたのは、目先の利益に惑わされない強固な信仰心を持っていたからだと言われています。
逆に、御利益主義の宗教の信者の中には、頻繁に宗旨替えをする方もあるそうです。目的が「御利益」なので、より欲求を叶えてくれそうなものを拝む、という事でしょう。
浄土真宗の信者が現世利益を求めていない事を表す、こんなエピソードがあります。
30年ほど前、広島県の江田島で大きな台風被害がありました。真宗寺院の本堂が倒壊したのですが、近隣の信者の方は毎朝このお寺の本堂に集まってお勤めをする習慣がありました。その朝のお勤めの真っ最中に本堂が倒壊し、死傷者が出たのです。新聞は「篤い信仰心が仇に」「一転、祈りの場が悲しみの場に」と報じました。
しかし翌日も信者はお寺に集まり、本堂は倒壊しているので庫裏(住職家族の住まい)で朝のお勤めをしたのだそうです。そして「昨日あんな事があったのに、なぜまたお参りに来たのですか?」と言うテレビや新聞記者のインタビューに対し「天災はいかんともしがたい」と平然と答えたのだそうです。
記者の「健康や幸福を願ってお参りする(と思い込んでいる)場所で事故が起こったのに、なぜ懲りずにお参りに?」という思いと「お参りしようが止めようが、台風は来るし地震もおこるだろう。 目先の幸福を求めてお参りしているわけではない」という「信心の人」の思いとの間には、大きなズレがあるように思います。