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2019年11月の法語 [月々の法語]

真の知識にあうことは かたきがなかに なおかたし
To encounter a true teacher is difficult even among difficult things.
法話画像2019年11月.png
今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、11月は親鸞聖人の直接の師である法然上人について詠まれた和讃です。

<解説>
和讃4行のうち、前半2行がカレンダーに掲載されていますので、まず全体を見てみましょう。
真の知識にあうことは かたきがなかに なおかたし
流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりに しくぞなき

現代語訳は以下のようになります。
法然上人のような、仏法の真実の指導者に出会うことは、困難中の困難である。
いつまでも、際限もなく迷いの世界をへめぐるのは、本願を疑う心が第一の障害になっているからだ。

この和讃は、浄土高僧和讃の源空(法然)讃にあるものですので、「真の知識」は法然上人のことであることは間違いありません。知識とは善知識ともいい、師を指す言葉ですので、真の師に出逢えることは、難しいことの中でも特に難しいことだと前半に書かれています。

そして後半は、その「師」に出逢えなかった者の状態を指しているようです。
つまり、浄土往生が出来ず、いつまでも流転輪廻をしてしまうのは、阿弥陀仏の本願を疑う心が障害になっていると書かれています。
「しく」とは「匹敵」の意味で、「しくぞなき」は「匹敵するものがない」という意味になります。

お経や本を読めば、仏法そのものに触れることは可能です。
しかし善知識に出逢わなければ、それがなかなか自分の血肉になっていかないという心情を表しているように思えます。

親鸞聖人は9歳で出家をされ、それから20年間も比叡山で修行に明け暮れましたが、自分自身がどのように救われていくのかが見出せず、煩悶としていました。
しかし29歳の時、市井で念仏の教えを説く法然上人に出逢い、そこから大きく人生が転換していきました。

そのご経験が、この和讃に込められているように感じます。


<私のあじわい>
先日、私のFacebookの知人から相談がありました。
西日本在住の男性で、Aさんとしておきましょう。
その方は、すでに法名もいただいている熱心な浄土真宗の門徒さんで、時々メッセージでやり取りをしていました。

そのAさんからの相談は、彼がもともと暴力団員であったこと。15年も前にきっぱりと足を洗ったが、過去を隠して生きることがつらく、それを周囲に知らせたいと考えているという内容でした。
実際に昔使っていた名刺も見せていただきましたが、いかにも恐ろしい雰囲気のものでした。

詳しく話を伺うと、ずいぶん前ですが暴力団員であった時は、少なくない他人様を不幸にしたり、人生を狂わせてしまったのだそうです。そんな自分が「仏教者です」と生きていることが許されないのではないかと苦しんでいらっしゃいました。

深い苦悩だと感じました。
仏教に「慚愧」という言葉があります。
「慚」は自らを恥じ、自ら罪を作らないこと。
「愧」は罪を恥じる思いが外に向かい、他人にも罪を作らせないという意味です。

仏説観無量寿経というお経の登場人物、アジャセ王子は父王を殺して王位に着きました。しかしその後、父を殺した罪の意識に苦しみました。
そのアジャセに側近が「あなたは確かに父を殺害したが、慚愧の念を持ったのは善いことです。なぜなら、慚愧を持たぬ者は人ではないからです」と告げたのです。


Aさんが暴力団員だった当時、逮捕されて刑務所に入っていたそうですが、その間にお姉さまが自死をなさったのだそうです。当然、枕元に駆けつけることも葬儀に参列することもできません。

Aさんは菩提寺の住職に手紙を出しました。すると末期癌で歩くのも困難な状態の住職が面会に来てくれ、経本を開き「お姉さんは諸仏になられた」と言ってくれました。

1ヶ月ほどして住職が亡くなると、跡を継いで住職となった息子さんが面会に来てくれ、また服役中に手紙のやり取りを続けてくれたそうです。
その時はAさんは暴力団員であることを隠していましたが、若住職はそれを知っていて、周囲からは「関わらない方がいい」と言われながらも、「それはできない」とはねつけ関わり続けてくださったのです。


Aさんは暴力団員として生きていたころに仏教に出逢っていたとしても、「なんだ、こんなもの」と一顧だにすらしなかったしなかったかもしれません。
しかしお姉さまの死、そして末期のご住職と周囲の反対をはねつけた若住職が善知識となって、Aさんの歩む道を大きく変えてくださったのです。

Aさんは今、過去に犯した罪に苦しんでいます。
もし暴力団員のままであったら、その苦しみは生じなかったかもしれません。
しかしこの苦しみは、「人」としての苦しみです。
仏さまの教えが善知識を通してAさんを人たらしめた故に生じた苦しみです。だからこの苦しみは、Aさんにとってかけがえのない宝物だと言えるでしょう。


Aさんは今、仕事のかたわら、大切な人が服役している方の相談を受ける活動をなさっています。

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