So-net無料ブログ作成
月々の法語 ブログトップ
前の10件 | -

2019年10月の法語 [月々の法語]

「信心」というは、すなわち本願力回向の信心なり
Shinjin is the entrusting heart that is directed to beings through the power of the Primal Vow.
2019.10法語.png
今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、10月は親鸞聖人の主著である『顕浄土真実教行証文類』からの一節です。

<解説>
一般には『教行信証』という略された題で知られる親鸞聖人の主著ですが、教・行・信・証・真仏土・化身土の6巻に分かれています。今月の言葉は3つ目の信巻に書かれており、『仏説無量寿経』という経典に記されている言葉を次々と解説する内容の一部が抜き出されています。

信心というと通常は、自分自身が神仏を信じる心を起こしている、あるいは胸に抱いているという意味で捉えている方が多いかと思います。しかし親鸞聖人はその信心を「本願力回向の信心なり」つまり「阿弥陀如来の本願の力から与えられた信心なのですよ」とおっしゃっています。

自分自身が阿弥陀如来を信じる心すら仏さまから与えられたものだという受け止めは、「絶対他力」と表現される親鸞聖人の思想の真骨頂と言えるでしょう。

<私のあじわい>
先日、相模原市の「市民・大学交流センター」という場所で「死」をテーマにお話をさせていただきました。1時間の話を終え、質疑応答に移ると数名の方からいろいろと質問をいただきました。その中で60代ぐらいと思われる男性から「死んだらどうなるのですか?」と尋ねられました。

ハッキリ言って困りました。だって死んだことありませんので「こうですよ」とは言えないわけです。でも「講釈師、見てきたようなウソをつき」という言葉がありますが、僧侶も見てきたように極楽浄土の様子を話すわけです。ですので私はその男性に「西の彼方にある極楽浄土に、仏さまとなって生まれていくと聞いております」と極めて教科書的な答え方をしました。

すると男性からは「そういう話じゃなくって」と返ってきたのです。言葉に込められたニュアンスとしては、「そんなおとぎ話のようなことは聞いてない」というふうに感じられました。

でも実は私は、「この世での命を終えると、仏となって極楽浄土に生まれていく」と信じているのです。もちろん実際に地球上にそういう場所が実在したり、仏という存在が生身の身体を持って存在するという信じ方はしていません。何と言葉に表したらよいか分かりませんが、漠然としつつ、でも確固として信じているのです。

前提が違う両者の問答ですから不完全燃焼で終わってしまいましたが、私としてはすっきりしません。自分が何故、一般的な現代人がおとぎ話のようだとすら思ってしまう話を信じていられるのか考えてみました。すると思い当たったのが、親鸞聖人の主著に書かれている「教行信証」だったのです。

一般的な仏教では、僧侶は正式な書名の順で悟りを得るとされています。つまり「教(教え)」があり、「行(修行)」を重ね、「証(悟り)」に至るという順番です。しかし親鸞聖人は、行と証の間に「信」を入れました。親鸞聖人は「信」ということを、とても大切に捉えていたのです。

自分になぞらえると、まず本を読んだり東京仏教学院に通ったりして「教」を学びました。そして毎朝尊前で手を合わせ、お経を上げお念仏を称えていますが、これが「行」です。そうした日々の「行」が、知らず知らず「信」を育んでいるのではないかと思い当たりました。

喩えると、野球をしたことがない人がイチローからバッティングの理論を聞かされ、バットを渡され「さあ、打ってみなさい」と言われてもバットはボールにかすりもしないでしょう。

しかし教えてもらった理論を胸に、毎日毎日バットの素振りを何年も繰り返して再びバッターボックスに立ったらどうでしょう。もちろん素振りだけでポンポン打てるようになるわけではないでしょうが、しかし最初に打席に立った時とは明らかに違い、「打てそうだ」という感覚が得られると思います。

質問をした男性と自分に何か違いがあるとすれば、こういうことだったのではないかと思い至りました。そして、これも感覚的な話になるのですが、私はこんな自分になったことを「自分のおかげ」とは思えません。もちろん勉強したりよほど体調が悪くなければ毎朝のお経を上げたりと、自分で努力をしていないわけではないのですが、それでも全て自分の手柄だとは思えないのです。

自分の努力や判断を超えたことに動かされ、今の自分になっている。だからこそ「仏さまとなって浄土に往く」と信じるこの気持ちも、親鸞聖人が説かれたように「仏さまから回向されたもの」と受け止められているのかもしれません。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2019年9月の法語 [月々の法語]

わがこころよければ往生すべしとおもうべからず
You should not think that you deserve to attain birth because you are good.
スクリーンショット 2019-09-09 09-09 22.51.31.png

今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、9月は親鸞聖人のご消息(お手紙)からの一節です。

<解説>
長い手紙で、親鸞聖人が83歳の時に笠間(現 茨城県笠間市)の門弟から寄せられた質問に答えたものになります。まず最初に自力の往生と他力の往生の違いについて記されています。

そして今月のカレンダーの言葉が含まれる「しかれば、我が身の悪ければ、いかでか如来迎えたまわんと思うべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、悪きものと思うべし。また我が心良ければ往生すべしと思うべからず、自力の御はからいにては真実の報土へ生るべからざるなり」という部分に繋がっています。

また、なぜ他力で往生が成されるのかが説かれ、日本や中国の高僧、釋尊の言葉が根拠として上げられ、そしてその後、他力の信心を得た者を褒め称える内容にと繋がっています。


<私のあじわい>
手紙の中盤、今月の言葉が含まれる部分を現代語訳すると、「自分が悪い存在であっても阿弥陀如来が迎えに来てくれないと思わなくても良い、凡夫はすべからく煩悩を具足する身であるのだから。そしてまた自分が良い存在だから往生できると思ってもいけない。自分の力では真実の浄土に行けるはずはないのだから」となります。

皆さんは、極楽浄土に仏として生まれることにテストがあるとしたら、自分は100点が取れそうだと思われますでしょうか? それとも0点だと思われるでしょうか?

親鸞聖人は「自分が悪い存在であっても、阿弥陀如来が迎えに来てくれないと思わなくても良い」と仰います。当時の人はどう生きたかによって死後に往く世界が違うと捉えており、良い事をすれば阿弥陀如来が迎えに来てくれると信じていました。またどれほどの善行をしたかによってその迎え方は九つに分かれると考え、駅名にもなっている「九品仏」はその思想から来ています。

ただ親鸞聖人は、善行をするどころか悪事しかできなかったとしても、阿弥陀さまが迎えに来てくださらないと悲観しなくて良いのですよ、と説かれます。その理由として「人は皆、尽きせぬ煩悩を身に備えているのだから」と仰います。

そしてまた逆に、「自分が良い存在だから往生できると思ってもいけない」とも説き、「自分の力では真実の浄土に往けるはずはないのだから」と理由を述べています。

極楽浄土という場所はどうやら広いようで、その中心は「真実の報土」と呼ばれ、外れの方は「辺地」と呼ばれます。あまり現実の場所のようなイメージを持つべきではありませんが、「人間は煩悩を備えているので、浄土の辺地にしか生まれることができない」と親鸞聖人は説いています。

なぜ親鸞聖人はそのように説かれたのでしょうか? 一所懸命に努力すれば浄土の中心に生まれ、悪いことをすれば浄土の僻地に生まれてしまうのですよ、と言った方が分かりやすかったのではないでしょうか?

そこには、親鸞聖人の人間観があるのではないかと思います。
いくら善良に生きていこうと思っても、様々な条件や環境に左右されて思う通りに生きられないのが私たちです。結果的に素晴らしいことをした人物も、多くの縁に支えられて結果が生じたに過ぎない、と親鸞聖人は捉えているのではないでしょうか。

何か事件や事故が起きると、報道番組でマイクを向けられた人やインターネットに書かれる意見は、「被害者やその家族の身になれば、犯人は厳罰に処してほしい」という論調が多くなります。

とんでもないことをしでかした人を許しておけない、という気持ちは痛いほど分かりますが、そこに犯人の側に立つ意見はほとんど見られません。もしそのような意見を出そうものなら、犯人と同じように批難されかねません。

ですので私もあまり声を大にしては言えないのですが、世間から指弾される犯人に対して「ああ、なぜこのようなことをしでかしてしまう人生を歩まざるを得なかったのだろうか」と悲しい気持ちになることがあるのです。

そこまで大きな事件や事故までいかなくても、私たちは皆、完璧に生きられているわけではありません。

私が携わる「自死・自殺に向き合う僧侶の会」で往復書簡という活動があります。希死念慮者や自死遺族と手紙を通じて相談を受けるというものです。

以前、同じ班で活動した先輩僧侶は、悩みを抱え希死念慮を持つ方から長い間相談を受け続けていました。その方は小さな過ちを犯してしまったのですが、それ以降社会から向けられる冷たい視線に苦しめられ続け、自分を責め続けていました。
その方に先輩僧侶がかけた言葉に私はハッとさせられました。
「褒められたことではありませんが、責められることでもありません」というものです。これは私自身にかけられた言葉のようだ、と感じたのです。

常に人から褒められるような毎日を送れているわけではないのは、自分自身が一番よく知っています。しかし、ほとんど誰もが同じように日々を送っているのではないでしょうか。ですので、褒められはしなくても責められるほどでもない、というこの言葉が心に染みたのだと思います。

常に100点を目指さなくても、まあ50点や60点の時があってもいいじゃないか。そう思うことができれば、少し肩の力を抜いて生きていくことができるのではないでしょうか。

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2019年5月の法語 [月々の法語]

十方の如来は衆生を一子のごとくに憐念す
The Tathagatas of the ten quarters compassionately regard each sentient being as their only child.
スクリーンショット 2019-05-09 05-09 11.10.56.png

今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、5月は『浄土和讃』の中で勢至菩薩を讃える「勢至讃」の一首です。また、カレンダーに書かれているのはひとつの和讃の半分ですので、まず全体を読んでみましょう。

超日月光この身には 念仏三昧教えしむ 十方の如来衆生を 一子のごとくに憐念す

実はこの和讃だけでは意味が完結しておらず、前後数首を併せてひとつの物語となっています。ですのでまず、前後も併せて現代語訳をします。

勢至菩薩は釈尊の御足を頂かれつつ申し上げるには、「はるかな昔、ひとりの仏が世に出られました。名を無量光と申します。その後、一劫にひとりずつ仏が世に出られ、十二劫が過ぎて最後の仏は超日月光仏と申します。

超日月光仏は私に念仏三昧を教えてくださいました。十方諸仏の慈悲を一身にそなえた阿弥陀仏は、人々を自分の一人子のように憐れみいつくしんでくださいます。

子が母を思うように、人々が阿弥陀仏を常に思っていると、いま眼前に、また未来に、ほどなく阿弥陀仏を必ず拝見できるでしょう。

十二劫の間に12の仏さまが世に出たと書かれています。これらの仏さまはそれぞれの名前がありますが、全て阿弥陀仏の化身であるとされています。またその順序は、よく声に出してお勤めをする「正信偈」の前半部分にも書かれています。


<私のあじわい>
釈尊は歴史上に実在した人物ですが、観音菩薩や勢至菩薩、阿弥陀仏は歴史上の人物ではありません。ですがこれらの和讃では、釈尊の目の前に勢至菩薩が額ずきながら阿弥陀仏について語るシーンが描かれているのが面白い部分です。

また、勢至菩薩を讃えるようでいて、その勢至菩薩が阿弥陀仏が教えてくれた念仏三昧や、全ての衆生を一人子のようにいつくしむ阿弥陀仏の慈悲について書かれているので、結局は阿弥陀仏を讃える内容になっているのも面白味を感じます。

和讃に「衆生を一子のごとくに憐念す」とあります。衆生とは生きとし生けるもの全てを指す言葉ですが、複数を表すこの言葉の後に「一子のごとく」と続きます。つまり数えきれない生命ひとつひとつを、我が一人子のように仏さまは憐れみいつくしんでくださっている、ということになります。


この部分を読むと、『歎異抄』の後序にある親鸞聖人の言葉「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」が思い起こされます。阿弥陀仏が、五劫もの長い年月をかけて考え尽くしてお建てになった誓願は、この私(親鸞)ひとりのためであったのだ」という受け止めです。

一見、傲慢な発言にも見えてしまうこの言葉ですが、もちろん仏さまの慈悲を自分が一身に受けている、という意味ではありません。阿弥陀仏の慈悲は衆生すべてに向けられているのですが、中でも自らの煩悩の海におぼれかかっているような凡夫にこそ、その慈悲は差し向けられています。

ですので親鸞聖人のこの言葉は傲慢とは正反対で、ご自身を非常に厳しく見て、自分のような者こそ阿弥陀仏の救いの対象なのだ、と捉えているからこその言葉になります。また、仏道というものは知識を蓄えることが目的でもなく、処世術でもなく、人を裁くための道具でもなく、ただただ自分自身を問題とするものだ、ということも表しているように感じられるのです。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2019年4月の法語 [月々の法語]

真実の信心は かならず名号を具す
True and real entrusting to Amida is unfailingly accompanied by saying the Name.
スクリーンショット 2019-04-11 04-11 17.20.04.png

2018年1月から『歎異抄』を題材として法話会を進めてきましたが、2019年4月から真宗教団連合の法語カレンダーに戻ります。
今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれていますが、4月は親鸞聖人の主著である『顕浄土真実教行証文類』からの一節です。

前後の大まかな内容は…
至心・信楽・欲生の三心は、言葉は異なっているが、その意味はただひとつ「真実の一心」である。それを「金剛の真心」とも言い、また「真実の信心」とも言う。
「真実の信心」には名号を称えるというはたらきが備わっているが、名号を称えていても必ずしも「真実の信心」が備わっているとは限らない。
「一心」が大切なので天親菩薩は『浄土論』の始めに「我一心」とお説きになった。
…となっています。

<私のあじわい>
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」のお念仏を大事にします。
1日に何回お称えしなさいとか、大きな声で称えなければならないという決まりはありませんが、とにかくお念仏が大切ですよ、と説いています。

先日、大切な恩師のお通夜に参列をしました。僧侶として尊敬する方で、私が今の道を歩んでいるひとつの原点となった方でもあります。

寺院の住職の通夜ですので、参列者にも多くの僧侶が並びます。だからでしょうか、あちこちで「なまんだぶ…」「なんまんだぶつ…」とお念仏の声が聞こえます。別に「皆さん一緒に称えましょうね」というタイミングではなく、思い思いに口から漏れ出しているのです。

これを耳にしながら私は、なかなかお念仏が出てこない自分に気がつきました。もちろん「皆さんご一緒に」とか「それでは合掌して」という時には出てくるのです。でもそれはクセのようなものではないか、格好がつくから称えているのではないか、と自問自答します。

それに比べ、周囲で息をするようにお念仏をしている方々はどうなのだろうか、と考えてしまいます。真実の信心が備わっていて、本人も気づかぬほど自然にお念仏を称えているのであれば素晴らしいことですが、外から見てそれは分かりません。
単に口グセになっっているだけかもしれない、または、そうすることが僧侶らしいから称えているのかもしれない……

恩師の通夜で余計なことを考え、思いは千々に乱れたまま通夜の読経が始まりました。もちろん普段慣れ親しんだお経ですが、手元に経本が無いので暗誦になります。しかも節が少し違うので余計なことは考えられず、自然と無心になっていきます。

そこでようやく自分の思い計らいを手放し、「我一心」という状態になることができたのです。そうまでしないと一心になれない自分を、恩師は無言で諭してくれたのでした。

nice!(2)  コメント(4) 
共通テーマ:blog

2019年3月の法語 [月々の法語]

今年は去年に引き続き、親鸞聖人のお言葉を弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
スクリーンショット 2019-03-04 03-04 15.11.31.png
第十条は歎異抄の中で最も短い条となっていますので、まずは前文をご覧ください。

念仏には無義をもって義とす。
不可称 不可説 不可思議のゆえにと仰せ候ひき。

これだけです。
しかし短いですが非常に深みのある内容で、またこれを説明することは大きな矛盾を孕んでいます。
なぜなら、「お念仏は言葉で説き尽くすことができない(不可説)」と書かれている、その内容を説明しなければならないからです。
でも人は、言葉以外ではなかなか思いを伝えられませんので、なんとかお話しをしてまいりたいと思います。

「義」には「意味・理由」という意味合いがあります(ややこしい言い回しですが)。ですので1行目は「意味や理由が無である、というわけです」となります。

ただここでの「無」は「無い、ナッシング」ということではなく、続く2行目にも書いてありますが、「人知の及ぶところではなく、はかりしれない」ということを表しています。

実はこれは浄土真宗だけではなく、仏教の他宗派や他宗教についても、その深奥は人知の及ばない、なかなか掴みきれないものだと思います。

たとえて言うと鰻のようなもので、鰻はヌルヌルとぬめって動き回るのでじっと掴み続けていることができません。一瞬掴んで人に渡そうとしても、ツルツルと落としてしまいます。
宗教が表す深奥もやはりじっと掴み続けていられないもので、仮に「よし、掴んだ」と思って人に説明しようとしても、なかなかうまくいきません。

また『夜と霧』の著者V.フランクルは「人生の意味を問うのは、たとえばチェスのチャンピオンに『最も良いチェスの手はどういうものか』と訪ねるようなもので、実際にはその時々に応じて違う展開になるので、最も良い手など無い」と答えるでしょう。人の生きる意味も同じで、実は人生が私たちに問いを投げ掛けているのです」と仰いました。

仏教は、古くは「仏道」と言いました。
道である以上、生涯をかけて歩み続けるものです。
なので事前に決まった「義」など無い「私の人生」を、真摯に歩んでいかなければならないのでしょう。

そしてその人生の羅針盤となり杖となる仏道を、私たちは聴き続けていくことが大切なのではないかと思います。

nice!(3)  コメント(4) 
共通テーマ:blog

2019年2月の法話 [月々の法語]

今年は去年に引き続き、親鸞聖人のお言葉を弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
スクリーンショット 2019-02-10 02-10 20.47.10.png
第九条は長いので、要約をします。

弟子である唯円が、師 親鸞聖人に「実はお念仏を称えていても、躍り上がるような喜びの心が湧いてこないのです…」と尋ねると、親鸞聖人は「あなたもか、実は私もそうなんだよ」と答えます。
さらに「喜ぶ心が湧かないからこそ、往生は間違いないのだ」と説きます。

「なぜなら、喜ぶ心が湧かないのは煩悩が邪魔をしているからです。しかし阿弥陀如来は、私たちが煩悩を手放せないことを承知の上で誓願をお建てになったのです」

「何度も何度も輪廻を繰り返したこの娑婆は郷里のように感じられ、往生したことがない極楽浄土を恋しく思えないのも、煩悩のせいなのです」


親鸞聖人と唯円さまの年齢差はおよそ50歳で、このやり取りがなされたのはおそらく親鸞聖人70代、唯円さま20代というところだと思われます。
現代であっても大学生と名誉教授のような年齢差ですが、寿命がせいぜい50〜60歳であった当時、まさに雲の上の存在といった感覚であったでしょう。
そんなお方に対して教義の根幹を覆すような問いを発するのですから、相当な覚悟をもってのことだったのではないでしょうか。

しかし師は弟子を叱責するどころか、「あなたもか、実は私もそうなんだよ」と驚くべき返答をします。そしてその共感の言葉に続き、理論が展開されていくのです。

人に煩悩があるからこそ、お念仏を喜べない。
しかし煩悩を持つ者こそを、阿弥陀如来は救うと誓われたのです。

nice!(2)  コメント(1) 
共通テーマ:blog

2019年1月の法話 [月々の法語]

今年は去年に引き続き、親鸞聖人のお言葉を弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
スクリーンショット 2019-01-13 01-13 9.38.21.png
第八条も七条と同じく短いので、まずは全文を掲載します。

念仏は行者のために、非行(ひぎょう)・非善(ひぜん)なり。
我がはからいにて行ずるにあらざれば非行といふ。
我がはからいにてつくる善にもあらざれば非善といふ。
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行・非善なりと云々。

「非行」は現代の読み方ですと「ひこう」となり、悪い行いを指します。「非行少年」なんて言葉もありますね。
ですが仏教的には「ひぎょう」と読みます。行、つまり修行ではないという意味です。
続く「善」は、仏教的な善い行いを指します。「善根功徳を積む」といった言葉もありますが、いわゆる「徳を積むような善い行い」を指します。

親鸞聖人は、お念仏はそれを称える者にとって、行でも善でもない、と仰るのですが、これはそれまでの仏教の常識からすると正反対のことを言っています。
つまり元々の仏教では、お念仏を称えること、特に数多く口にすることは修行でもあり善い行いでもあると捉えられていたのです。
ではなぜ親鸞聖人は「そうではない」と仰ったのでしょう?

「はからい」という言葉が続けて2度、出てきます。
自分の意志や判断という意味ですが、「お念仏を称える」ことを広い広い視点で見てみると…
人間としてこの世に生まれ、仏教に出逢う縁があり、こうして念仏を称えているのは、全てが自分の「はからい」であろうか?
いや、そうではない。仏さまの「はからい」によって、この私の口から念仏が漏れ出てくるのだ。
親鸞聖人はそう捉えられたのでしょう。

また後半に「他力」という言葉が出てきます。
色々な使われ方をする言葉ですが、仏教、特に浄土教では「阿弥陀如来のはからい」を「他力」と言います。
特に親鸞聖人においては、上記のような「自分のはからい」が入る余地の無いほど「他力」を重視し、そのあり方は「絶対他力」と呼ばれます。

親鸞聖人は、なぜここまで「他力」を徹底したのでしょうか。
その理由のひとつは、お念仏に「自分のはからい」がほんの少しでも混じると、人はそれを切っ掛けとして、お念仏を自分のものとして握りしめてしまう傾向がある、と危惧されたのではないでしょうか。

つまり、「何年前からお念仏をしている」「1日に何回のお念仏を称えている」「人より大きな声でお念仏を称えている」などと、人と優劣を比べたり、他者をやり込める道具にしてしまう。
そういったことを嫌い、避けるために、「念仏は行者のために非行 非善なり」と仰ったのではないでしょうか。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2018年11月の法話 [月々の法語]

今年は親鸞聖人のお言葉を、弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
スクリーンショット 2018-11-05 11-05 23.35.38.png
第七条は比較的短いので、まず全文を見てましょう。

念仏者は無碍の一道なり。
そのいはれ、いかんとならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。
罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。

「無碍」とは、妨げるものが無い、という意味です。
念仏を大切にする人々には妨げが無い、という一文で始まります。

その理由として、念仏者は天神・地祇が敬い、魔界・外道もさまたげとはならない、と書かれています。
また、自らが為した罪悪も報いを恐れる必要がなく、どのような善行も念仏には及ばない、と続きます。
これは一体どういうことでしょうか?
そんなバカな! と思われたかもしれません。


21世紀になって10年以上が過ぎ、平成も終わろうとしています。
しかし現代においても、私たちは目に見えないものに左右されて生きています。
たとえば占い、たとえば大安や仏滅、たとえば厄年、たとえばスピリチュアル……

科学の発展した現代でさえそうなのですから、親鸞聖人の生きた平安鎌倉時代はどれほど生活が左右されていたことでしょうか。2012年の大河ドラマ『清盛』では、身分の高い登場人物が病気になると、隣の部屋に大勢の僧侶を招いて回復を祈る儀式を執り行うシーンが映されていました。

その時代に親鸞聖人は、「目に見えないものに恐れおののくことはないのですよ、南無阿弥陀仏と称える皆さんは阿弥陀さまに守られているのですよ」と説かれたのです。
その言葉は、不安のなかに生きる人々をどれだけ勇気づけたでしょうか。

仏教で「三施」という言葉があり、そのひとつに「無畏施」があります。
「畏れ(おそれ)」を「無」にする施しです。
また仏教者(法華信者)である宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に、「南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い」とあります。

「そんなバカな!」と感じたかもしれないこの条ですが、実は仏教の大切な要をおさえているのです。


追記
「天地の神々が念仏者を敬う」という部分ですが、仏教では天地の神々もまだ迷いの世界にある存在とされています。
一方、仏教の最終目的は、悟りを開いて迷いから解脱した「仏」に成ることとされています。

念仏を称えた者は阿弥陀仏に救いとられ、必ず悟りにいたる「不退転」という状態になります。
ですので、まだ迷いから解脱できていない神々から念仏者が敬われるということになります。

追記2
「外道」という言葉が出てきます。
現在では悪逆非道な人に対して、「この外道!」などと言いますので(実際に言ったことはありませんが)悪い意味の言葉になっていますが、もともとはそれほど悪い意味ではありません。

お釈迦さまの時代は、従来のスタンダードな宗教であるバラモン教から離れ、自由な宗教者や思想家が新しい教えを説く時代でした。
その中で、お釈迦さまと弟子たちから見た「外(ほか)の道」を「外道」と呼びました。ですので必ずしも「悪」や「よこしま」「過ち」といったニュアンスの言葉ではありません。

追記3
親鸞聖人の時代、不安の中に生きる人々をどれだけ勇気づけたでしょうか、と書きましたが、それは当時の人に止まる話ではありません。
今の時代でも未来であっても、人間が生きている限り欲求は尽きることはありませんし、目に見えないものに振り回されることが止むことはないでしょう。
そういった不安を払拭するのが、この親鸞聖人の言葉であると思います。

nice!(2)  コメント(2) 
共通テーマ:blog

2018年10月の法話 [月々の法語]

今年の法話会は『歎異抄』のお話しをしていますが、10月は先日訪れた恐山の話をたっぷりさせて頂きました。
もう、話さずにはいられないという気持ちでした (^人^)

1日目はこちら

2日目はこちら


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2018年9月の法語 [月々の法語]

今年は親鸞聖人のお言葉を、弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
スクリーンショット 2018-09-13 09-13 21.37.22.png
7月8月はお盆で法話会がお休みでしたので、3ヵ月ぶりの開催となりました。
1月の前序から順に進めてきましたが、6月にひとつ飛ばして第6条をお話しましたので、今月はひとつ戻って第5条です。

『歎異抄』は私たちの常識からすると驚くような言葉をテーマにして、そこから話が展開されていく場合が多くあります。それだけ弟子の唯円の記憶に、深く刻まれている言葉ということでしょう。

第5条で親鸞聖人は、「私は父母の供養のためにお念仏を称えたことは一度もありません」と口を開きます。


皆さんがお寺に行く場合、どんな目的で訪れるでしょうか?
観光だったり写経だったり色々な目的があるでしょうが、なにより一番多い目的は、亡くなった方の供養ではないでしょうか。お葬式やご法事など、様々な供養の形があります。

親鸞聖人はひとつの宗派を開いたほどのお坊さんですから、亡き親の供養も懇ろになさったんだろうな…と思ったら驚愕の「していない」発言です。
いったいどういうことなのでしょうか、親鸞さまがとても冷たい人だということでしょうか?

もちろんそうではありません。
親鸞聖人は言葉を続けます。

この世に生きる一切の生きとし生けるものは、何度も輪廻を繰り返す中で、いつか親子や兄妹だったかもしれない。

そして…

まずはお念仏によって自らが仏となり、そして自由自在に縁ある存在を救いとっていこう。

今生の親子や兄妹という関係の相手だけを救うのではない。
そして不十分な己の力でではなく、仏さまとなって自由自在に全てを救いとっていこう。

親鸞聖人は冷たいのではなく、広大無辺な慈悲の道を私たちに示してくださっています。

nice!(4)  コメント(2) 
共通テーマ:blog
前の10件 | - 月々の法語 ブログトップ