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2020年2月の法語 [月々の法語]

生のみが我らにあらず 死もまた我らなり

It isn’t life alone that makes up what we are. Death also is part of us.
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今年の法語カレンダーは、僧侶であるなしに限らず広く念仏者の言葉が引かれています。

2月は明治期に活躍した真宗大谷派の僧侶、清沢満之師の言葉です。



現在TBSで『病室で念仏を唱えないでください』という連続ドラマが放送されています。マンガが原作で、真言宗の僧侶で救急救命医の主人公が活躍する物語です。

 

私も何回か医療関係者に「病院に坊さんが法衣姿で来たらどう思いますか?」と聞いたことがありますが、だいたい皆さん「ギョッとする」なんておっしゃいます。おそらく病院と僧侶は生と死、真逆のものであって、病院に坊さんなど来てもらっては「縁起が悪い」というイメージなのだと思います。

 

ちょっと脱線しますが、ドラマは真言宗の僧侶が主人公なので、本来は「病室で真言をとなえないでください」とするべきなのでしょうが、一般の人に分かりやすくするために「念仏」としたのでしょうね。

 

もうひとつ、特に浄土真宗の場合、お念仏を口にすることを「称名」と呼びますので、ドラマのタイトルとは違い、念仏は「称える」の文字を用います。

ちなみに日蓮宗のお題目は「唱題行」と呼び「唱える」の方を用いるそうです。

 

 

さて、今月の言葉は、死にまつわる格言の中で、私が最もよく人に伝えているもののひとつです。ワークショップ「死の体験旅行」を毎月1回から多い時で5~6回ほど開催していますが、その時に古今東西の様々な死に関する格言を紹介しています。

 

その中でも最も登場回数が多いのが、この清沢満之師の言葉と、親鸞聖人が詠んだとされる「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半に嵐の 吹かぬものかわ」という詩歌です。

 

他にも…

「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」道元禅師

「先ずは臨終のことを習ろうて、後に他事を習ろうべし」日蓮聖人

「朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり」蓮如上人

「明日死ぬと思って生きなさい、永遠に生きると思って学びなさい」マハトマ・ガンジー

「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」哲学者 ハイデッガー

「もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」スティーブ・ジョブズ

…といった言葉を紹介しています。

 

 

さて、今月の言葉には続きがあります。

「生のみが我等にあらず、死もまた我等なり。我等は生死を並有するものなり」というものです。

 

私たちは普段、「生」が続くことを前提に暮らしています。しかし本当は、明日の朝に目が覚める保証などありません。今月の言葉通り、「死もまた我ら」であり「生死を並有」しているのです。

 

けれど私たちは「死」を頭の外に追いやり、来月の予定を入れたり、年末には来年の手帳やカレンダーを買ったりしているのです。もちろんそれが悪いというわけではなく、人間として当たり前の感性だと思います。

 

けれど、死に関する格言が古今東西にこれほどあるということは、死について考えるのは非常に大切なことだということです。いつもいつも考えていたら滅入ってしまうかもしれませんが、時に死を頭の中に入れて自分の人生を考えることは健全なことだと思いますし、自分の人生を誠実に歩むことに繋がると思っています。

 

 

冒頭で「病院に坊さんなど来てもらっては縁起が悪い」と言いましたが、縁起とは「因縁生起」という仏教用語が略されたものです。この因縁生起は、「原因があり、様々な縁が重なって、結果が生起してくる」という意味の言葉です。

 

ここに生死をあてはめると、生まれてきたことが因、年を取ったり病気になったりすることが縁、そして結果として死が生起します。よく死を「万が一」という表現をしますが、本当は「万が万」なのです。

 

皆さんも時には「死」について考える時間を持ってみてはいかがでしょうか。


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葬儀と宗教 [月々の法語]

ネットで「日本初! お坊さんのいないお葬式」という記事を見て、「いったい、どういうことだろう??」と不思議に思いました。
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別に否定的に感じたわけではなく、葬儀は仏式だけではなく神式やキリスト教式もあり、大規模宗教団体である創価学会は以前から友人葬という形式で僧侶は呼んでいません。

また近年、特に都市部では無宗教葬や直葬が増え、僧侶のいないお葬式が珍しいわけでも新しいわけでもありませんので、記事のタイトルを不思議に感じたのです。


疑問を抱いたまま記事を読んでみると、どうやら葬儀社が明確に無宗教葬をサービスとして提供する、ということのようです。

おそらく今までは、葬儀社が自ら無宗教葬を推し出すことはなく、喪主が望めばそのように進めるという流れだったでしょうから、ひとまず納得しました。

前述の通り、今までも実質的に「お坊さんのいないお葬式」は少なくなかったわけですし、葬儀社から「こういう選択肢があるんですよ」と提示されれば、特に菩提寺などの無い方は選択しやすくなるでしょう。

ですので、こうしたサービスが生まれたことで、今までも一定数あった無宗教葬が増えていくだろうなと感じました。


しかし3つの気になる点があります。

1つ目は、辞書で「葬式」と引くと「死者をほうむる儀式、葬儀」と出てきます。また「儀式」を引くと「一定の作法・形式にのっとって行われる行事。慶弔に際して行われる行事や組織体が行う行事など」とあり、宗教と限定されてはいませんが、何らかの作法・形式に則るものとされています。

ですので、宗教であったり地域に残っている何らかの作法を用いなければ、それは「葬式」と呼べるのだろうか? という疑念です。

別に昔通りにやらなくてはならない、ということではなく、大切な身内が亡くなるという重大事をいかに受け止めるか。その方法として国や地域や民族それぞれの方法で受け継がれ蓄積された智恵がありますので、それを省いてしまって大丈夫なのだろうか? と思います。

実際に、最近の直葬増加の影響もあってか、多くのお寺が「直葬をしたのですが気持ちの収まりがつかない、お経を上げて欲しい」という相談を受けた経験があります。

私にも経験がありますので、やはり人の心は一筋縄ではいかないのだな、と感じます。


2つ目は、「お坊さんのいないお葬式」の宣伝文句に「無宗教なのに、お葬式ではなぜお坊さんを呼ぶのだろう」と書かれていたことです。
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私の記事でも便宜上「無宗教葬」という言葉を使っていますが、実は日本人のほとんどは「無宗教」ではないのです。

「え? 私は特に何の宗教も信仰していませんよ!」という方は多いでしょうが、生まれた時からお宮参り・七五三・成人式・結婚式・葬儀など、神社やお寺・教会で儀式に参加したことが無い方はほとんどいらっしゃらないでしょう。

また、家に神棚や仏壇があったり、家族や親戚の法事への出席、初詣でやお盆の墓参り、クリスマスや大晦日の鐘つきなど、こちらも全く経験が無いという方はほとんどいらっしゃらないと思います。

これらの宗教的な事柄を徹底して避けるのが本来の「無宗教」ですから、様々な宗教と上手に付き合ってきた日本人は実は「無宗教」なのではなく…

非特定宗教信仰者

なのだと私は考えています。

また、動物と人間の違いはいくつか上げられますが、「死者を悼み弔う」ことも大きな違いのひとつとして上げられます。

そして、死者を悼み弔うことは宗教の大きな要素ですので、宣伝文句の「無宗教なのに、お葬式ではなぜお坊さんを呼ぶのだろう」には違和感を感じます。

本来は「無宗教なのに、なぜお葬式をするのだろう」となるのではないでしょうか。


最後に3つ目ですが、ちょっと驚いてしまいました。
会社のホームページに「供養」という項目があるのです。
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しかし「供養」はそもそも仏教用語ですので、お坊さんがいなくては供養になりません。

矛盾が大きすぎてコメントのしようがありませんが、会社の中でどのような話があったんだろうな、と想像してしまいました。


長々と書いてきましたが、葬儀にしても埋葬にしても、選択肢が増えることは基本的には良いことだと思います。
ただ、選択肢が増えたがゆえに迷う人も増えるのも確かです。

「いざ」という時では慌ててしまいます。
ぜひ「いざ」を待たずに、家族や周囲の人と話す機会を設けてみてください。

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2020年1月の法語 [月々の法語]

人も草木も虫も 同じものは一つもない おなじでなくて みな光る
While people and plants and insects all differ, the Buddha’s inner light isines forth in all.
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今年の法語カレンダーは、僧侶に限らず広く念仏者の言葉が引かれています。
1月は仏教詩人として名高い榎本栄一さんの言葉です。

同じ種類の植物や昆虫、鳥や動物など、それぞれ見た目の個性はあって本人(?)たちが見ればお互い見分けはつくのでしょうが、人間から見ればなかなか区別はつきません。それどころか同じ人間でも肌の色が異なれば見分けがつきにくいものですし、オジサンになってくるとナントカKB48とかカントカ坂46とかのお嬢さんたちも見分けがつかなくなってきます。


とはいっても、どれほど似通って見える生きもの、たとえばアリの群れを見て個体識別できる人はいないでしょうが、それでもひとつひとつ異なる尊い「いのち」を生きているのは間違いのないことです。

今月のカレンダー、榎本栄一さんの言葉は、そうした「いのち」ひとつひとつがかけがえのないものであると書かれています。またその「いのち」が「みな光る」と書かれています。いのちが光るとはどういうことでしょうか。


浄土真宗でよくお勤めされるお経に「歎仏偈(たんぶつげ、宗派によって讃仏偈(さんぶつげ)とも呼ばれる)」というものがあります。大無量寿経という長い経典の一部ですが、冒頭に「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」という言葉があります。

阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が、師の世自在王仏に向かってこの言葉を述べるのですが、意味としては「あなたさまのお顔は気高く光り輝いております」と誉め讃える内容です。ですのでお経のタイトルが「讃仏偈=世自在王仏を讃える偈」となっています。

歎仏偈は「歎く(なげく)」という文字なので意味合いが変わってきそうですが、歎くとという字は「感歎する」など、とても感心した場合にも用いられます。ですので「世自在王仏の光り輝く気高いお姿に感激して読まれた偈」という意味になります。

ちなみに「偈」とは、リズムや文字数が整っているお経を指します。
また、同じく大無量寿経で、教えを説くお釈迦さまの姿を見た弟子の阿難が「光顔巍巍」と表現しています。

話を戻すと、仏さまは気高く光り輝くお姿をしておられるわけです。それを表しているのが仏像の後ろにある光背(後光)です。仏さまによってさまざまな形をしていますが、これも仏さまが輝いていることを表現しています。

さらに西洋に目を向けると、天使の頭の上に輪っかが乗っている絵を見たことがあると思いますが、これはもともとキリスト教の宗教画でイエス・キリストや聖母マリア、聖人の頭の後ろに描かれた後光が形を変えたものと言われています。東洋でも西洋でも、仏教でもキリスト教でも、尊い方は光り輝いて見えたということでしょう。


さて、仏さまや神さまが輝いて見えるというのは感覚的にうなずけると思いますが、今月のカレンダーの言葉は人も草木も虫も「みな光る」と書かれています。これはどういうことでしょうか。

アカデミー賞を受賞した日本映画、『おくりびと』をご存知でしょうか。葬儀社で働く納棺師を描いた作品ですが、この映画の原案は青木新門さんの書かれた『納棺夫日記』です。これは非常に浄土真宗の要素が色濃い本なのですが、映画化の際に宗教性がすっかり消されてしまい、青木新門さんは「別物だから原作と書かないでほしい」といった経緯があります。

この本の中では何度も、いのちが光り輝いて見えるという描写が登場します。ご自身でも何度も経験されていますが、文中に若くして亡くなった医師の言葉が紹介されています。その医師はガンの転移の宣告を受け、背筋の凍るような思いをします。しかし帰り道、世界がとても明るく見えることに気がつきます。またそのあたりの人や植物や電柱まで光り輝いて見える。自宅に戻ると妻もまた、手を合わせたいほど尊く光り輝いて見えたのだそうです。

考えてみれば、私たちひとりひとりの「いのち」がここにあることは、奇跡以外の何ものでもありません。毎朝目が覚めるのも当たり前のことではありません。しかし普段はそれに気づけずに私たちは生きていますが、いざ生命の危機を迎えると「当たり前」が崩れ去って「いのち」の尊さを見通せる視線をいただけるのでしょう。

榎本栄一さんの言葉は、詩人の繊細な感性でもって「いのち」が尊く光り輝いている様子を表現したものなのでしょう。

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2019年11月の法語 [月々の法語]

真の知識にあうことは かたきがなかに なおかたし
To encounter a true teacher is difficult even among difficult things.
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今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、11月は親鸞聖人の直接の師である法然上人について詠まれた和讃です。

<解説>
和讃4行のうち、前半2行がカレンダーに掲載されていますので、まず全体を見てみましょう。
真の知識にあうことは かたきがなかに なおかたし
流転輪廻のきわなきは 疑情のさわりに しくぞなき

現代語訳は以下のようになります。
法然上人のような、仏法の真実の指導者に出会うことは、困難中の困難である。
いつまでも、際限もなく迷いの世界をへめぐるのは、本願を疑う心が第一の障害になっているからだ。

この和讃は、浄土高僧和讃の源空(法然)讃にあるものですので、「真の知識」は法然上人のことであることは間違いありません。知識とは善知識ともいい、師を指す言葉ですので、真の師に出逢えることは、難しいことの中でも特に難しいことだと前半に書かれています。

そして後半は、その「師」に出逢えなかった者の状態を指しているようです。
つまり、浄土往生が出来ず、いつまでも流転輪廻をしてしまうのは、阿弥陀仏の本願を疑う心が障害になっていると書かれています。
「しく」とは「匹敵」の意味で、「しくぞなき」は「匹敵するものがない」という意味になります。

お経や本を読めば、仏法そのものに触れることは可能です。
しかし善知識に出逢わなければ、それがなかなか自分の血肉になっていかないという心情を表しているように思えます。

親鸞聖人は9歳で出家をされ、それから20年間も比叡山で修行に明け暮れましたが、自分自身がどのように救われていくのかが見出せず、煩悶としていました。
しかし29歳の時、市井で念仏の教えを説く法然上人に出逢い、そこから大きく人生が転換していきました。

そのご経験が、この和讃に込められているように感じます。


<私のあじわい>
先日、私のFacebookの知人から相談がありました。
西日本在住の男性で、Aさんとしておきましょう。
その方は、すでに法名もいただいている熱心な浄土真宗の門徒さんで、時々メッセージでやり取りをしていました。

そのAさんからの相談は、彼がもともと暴力団員であったこと。15年も前にきっぱりと足を洗ったが、過去を隠して生きることがつらく、それを周囲に知らせたいと考えているという内容でした。
実際に昔使っていた名刺も見せていただきましたが、いかにも恐ろしい雰囲気のものでした。

詳しく話を伺うと、ずいぶん前ですが暴力団員であった時は、少なくない他人様を不幸にしたり、人生を狂わせてしまったのだそうです。そんな自分が「仏教者です」と生きていることが許されないのではないかと苦しんでいらっしゃいました。

深い苦悩だと感じました。
仏教に「慚愧」という言葉があります。
「慚」は自らを恥じ、自ら罪を作らないこと。
「愧」は罪を恥じる思いが外に向かい、他人にも罪を作らせないという意味です。

仏説観無量寿経というお経の登場人物、アジャセ王子は父王を殺して王位に着きました。しかしその後、父を殺した罪の意識に苦しみました。
そのアジャセに側近が「あなたは確かに父を殺害したが、慚愧の念を持ったのは善いことです。なぜなら、慚愧を持たぬ者は人ではないからです」と告げたのです。


Aさんが暴力団員だった当時、逮捕されて刑務所に入っていたそうですが、その間にお姉さまが自死をなさったのだそうです。当然、枕元に駆けつけることも葬儀に参列することもできません。

Aさんは菩提寺の住職に手紙を出しました。すると末期癌で歩くのも困難な状態の住職が面会に来てくれ、経本を開き「お姉さんは諸仏になられた」と言ってくれました。

1ヶ月ほどして住職が亡くなると、跡を継いで住職となった息子さんが面会に来てくれ、また服役中に手紙のやり取りを続けてくれたそうです。
その時はAさんは暴力団員であることを隠していましたが、若住職はそれを知っていて、周囲からは「関わらない方がいい」と言われながらも、「それはできない」とはねつけ関わり続けてくださったのです。


Aさんは暴力団員として生きていたころに仏教に出逢っていたとしても、「なんだ、こんなもの」と一顧だにすらしなかったしなかったかもしれません。
しかしお姉さまの死、そして末期のご住職と周囲の反対をはねつけた若住職が善知識となって、Aさんの歩む道を大きく変えてくださったのです。

Aさんは今、過去に犯した罪に苦しんでいます。
もし暴力団員のままであったら、その苦しみは生じなかったかもしれません。
しかしこの苦しみは、「人」としての苦しみです。
仏さまの教えが善知識を通してAさんを人たらしめた故に生じた苦しみです。だからこの苦しみは、Aさんにとってかけがえのない宝物だと言えるでしょう。


Aさんは今、仕事のかたわら、大切な人が服役している方の相談を受ける活動をなさっています。

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2019年10月の法語 [月々の法語]

「信心」というは、すなわち本願力回向の信心なり
Shinjin is the entrusting heart that is directed to beings through the power of the Primal Vow.
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今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、10月は親鸞聖人の主著である『顕浄土真実教行証文類』からの一節です。

<解説>
一般には『教行信証』という略された題で知られる親鸞聖人の主著ですが、教・行・信・証・真仏土・化身土の6巻に分かれています。今月の言葉は3つ目の信巻に書かれており、『仏説無量寿経』という経典に記されている言葉を次々と解説する内容の一部が抜き出されています。

信心というと通常は、自分自身が神仏を信じる心を起こしている、あるいは胸に抱いているという意味で捉えている方が多いかと思います。しかし親鸞聖人はその信心を「本願力回向の信心なり」つまり「阿弥陀如来の本願の力から与えられた信心なのですよ」とおっしゃっています。

自分自身が阿弥陀如来を信じる心すら仏さまから与えられたものだという受け止めは、「絶対他力」と表現される親鸞聖人の思想の真骨頂と言えるでしょう。

<私のあじわい>
先日、相模原市の「市民・大学交流センター」という場所で「死」をテーマにお話をさせていただきました。1時間の話を終え、質疑応答に移ると数名の方からいろいろと質問をいただきました。その中で60代ぐらいと思われる男性から「死んだらどうなるのですか?」と尋ねられました。

ハッキリ言って困りました。だって死んだことありませんので「こうですよ」とは言えないわけです。でも「講釈師、見てきたようなウソをつき」という言葉がありますが、僧侶も見てきたように極楽浄土の様子を話すわけです。ですので私はその男性に「西の彼方にある極楽浄土に、仏さまとなって生まれていくと聞いております」と極めて教科書的な答え方をしました。

すると男性からは「そういう話じゃなくって」と返ってきたのです。言葉に込められたニュアンスとしては、「そんなおとぎ話のようなことは聞いてない」というふうに感じられました。

でも実は私は、「この世での命を終えると、仏となって極楽浄土に生まれていく」と信じているのです。もちろん実際に地球上にそういう場所が実在したり、仏という存在が生身の身体を持って存在するという信じ方はしていません。何と言葉に表したらよいか分かりませんが、漠然としつつ、でも確固として信じているのです。

前提が違う両者の問答ですから不完全燃焼で終わってしまいましたが、私としてはすっきりしません。自分が何故、一般的な現代人がおとぎ話のようだとすら思ってしまう話を信じていられるのか考えてみました。すると思い当たったのが、親鸞聖人の主著に書かれている「教行信証」だったのです。

一般的な仏教では、僧侶は正式な書名の順で悟りを得るとされています。つまり「教(教え)」があり、「行(修行)」を重ね、「証(悟り)」に至るという順番です。しかし親鸞聖人は、行と証の間に「信」を入れました。親鸞聖人は「信」ということを、とても大切に捉えていたのです。

自分になぞらえると、まず本を読んだり東京仏教学院に通ったりして「教」を学びました。そして毎朝尊前で手を合わせ、お経を上げお念仏を称えていますが、これが「行」です。そうした日々の「行」が、知らず知らず「信」を育んでいるのではないかと思い当たりました。

喩えると、野球をしたことがない人がイチローからバッティングの理論を聞かされ、バットを渡され「さあ、打ってみなさい」と言われてもバットはボールにかすりもしないでしょう。

しかし教えてもらった理論を胸に、毎日毎日バットの素振りを何年も繰り返して再びバッターボックスに立ったらどうでしょう。もちろん素振りだけでポンポン打てるようになるわけではないでしょうが、しかし最初に打席に立った時とは明らかに違い、「打てそうだ」という感覚が得られると思います。

質問をした男性と自分に何か違いがあるとすれば、こういうことだったのではないかと思い至りました。そして、これも感覚的な話になるのですが、私はこんな自分になったことを「自分のおかげ」とは思えません。もちろん勉強したりよほど体調が悪くなければ毎朝のお経を上げたりと、自分で努力をしていないわけではないのですが、それでも全て自分の手柄だとは思えないのです。

自分の努力や判断を超えたことに動かされ、今の自分になっている。だからこそ「仏さまとなって浄土に往く」と信じるこの気持ちも、親鸞聖人が説かれたように「仏さまから回向されたもの」と受け止められているのかもしれません。

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2019年9月の法語 [月々の法語]

わがこころよければ往生すべしとおもうべからず
You should not think that you deserve to attain birth because you are good.
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今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、9月は親鸞聖人のご消息(お手紙)からの一節です。

<解説>
長い手紙で、親鸞聖人が83歳の時に笠間(現 茨城県笠間市)の門弟から寄せられた質問に答えたものになります。まず最初に自力の往生と他力の往生の違いについて記されています。

そして今月のカレンダーの言葉が含まれる「しかれば、我が身の悪ければ、いかでか如来迎えたまわんと思うべからず、凡夫はもとより煩悩具足したるゆえに、悪きものと思うべし。また我が心良ければ往生すべしと思うべからず、自力の御はからいにては真実の報土へ生るべからざるなり」という部分に繋がっています。

また、なぜ他力で往生が成されるのかが説かれ、日本や中国の高僧、釋尊の言葉が根拠として上げられ、そしてその後、他力の信心を得た者を褒め称える内容にと繋がっています。


<私のあじわい>
手紙の中盤、今月の言葉が含まれる部分を現代語訳すると、「自分が悪い存在であっても阿弥陀如来が迎えに来てくれないと思わなくても良い、凡夫はすべからく煩悩を具足する身であるのだから。そしてまた自分が良い存在だから往生できると思ってもいけない。自分の力では真実の浄土に行けるはずはないのだから」となります。

皆さんは、極楽浄土に仏として生まれることにテストがあるとしたら、自分は100点が取れそうだと思われますでしょうか? それとも0点だと思われるでしょうか?

親鸞聖人は「自分が悪い存在であっても、阿弥陀如来が迎えに来てくれないと思わなくても良い」と仰います。当時の人はどう生きたかによって死後に往く世界が違うと捉えており、良い事をすれば阿弥陀如来が迎えに来てくれると信じていました。またどれほどの善行をしたかによってその迎え方は九つに分かれると考え、駅名にもなっている「九品仏」はその思想から来ています。

ただ親鸞聖人は、善行をするどころか悪事しかできなかったとしても、阿弥陀さまが迎えに来てくださらないと悲観しなくて良いのですよ、と説かれます。その理由として「人は皆、尽きせぬ煩悩を身に備えているのだから」と仰います。

そしてまた逆に、「自分が良い存在だから往生できると思ってもいけない」とも説き、「自分の力では真実の浄土に往けるはずはないのだから」と理由を述べています。

極楽浄土という場所はどうやら広いようで、その中心は「真実の報土」と呼ばれ、外れの方は「辺地」と呼ばれます。あまり現実の場所のようなイメージを持つべきではありませんが、「人間は煩悩を備えているので、浄土の辺地にしか生まれることができない」と親鸞聖人は説いています。

なぜ親鸞聖人はそのように説かれたのでしょうか? 一所懸命に努力すれば浄土の中心に生まれ、悪いことをすれば浄土の僻地に生まれてしまうのですよ、と言った方が分かりやすかったのではないでしょうか?

そこには、親鸞聖人の人間観があるのではないかと思います。
いくら善良に生きていこうと思っても、様々な条件や環境に左右されて思う通りに生きられないのが私たちです。結果的に素晴らしいことをした人物も、多くの縁に支えられて結果が生じたに過ぎない、と親鸞聖人は捉えているのではないでしょうか。

何か事件や事故が起きると、報道番組でマイクを向けられた人やインターネットに書かれる意見は、「被害者やその家族の身になれば、犯人は厳罰に処してほしい」という論調が多くなります。

とんでもないことをしでかした人を許しておけない、という気持ちは痛いほど分かりますが、そこに犯人の側に立つ意見はほとんど見られません。もしそのような意見を出そうものなら、犯人と同じように批難されかねません。

ですので私もあまり声を大にしては言えないのですが、世間から指弾される犯人に対して「ああ、なぜこのようなことをしでかしてしまう人生を歩まざるを得なかったのだろうか」と悲しい気持ちになることがあるのです。

そこまで大きな事件や事故までいかなくても、私たちは皆、完璧に生きられているわけではありません。

私が携わる「自死・自殺に向き合う僧侶の会」で往復書簡という活動があります。希死念慮者や自死遺族と手紙を通じて相談を受けるというものです。

以前、同じ班で活動した先輩僧侶は、悩みを抱え希死念慮を持つ方から長い間相談を受け続けていました。その方は小さな過ちを犯してしまったのですが、それ以降社会から向けられる冷たい視線に苦しめられ続け、自分を責め続けていました。
その方に先輩僧侶がかけた言葉に私はハッとさせられました。
「褒められたことではありませんが、責められることでもありません」というものです。これは私自身にかけられた言葉のようだ、と感じたのです。

常に人から褒められるような毎日を送れているわけではないのは、自分自身が一番よく知っています。しかし、ほとんど誰もが同じように日々を送っているのではないでしょうか。ですので、褒められはしなくても責められるほどでもない、というこの言葉が心に染みたのだと思います。

常に100点を目指さなくても、まあ50点や60点の時があってもいいじゃないか。そう思うことができれば、少し肩の力を抜いて生きていくことができるのではないでしょうか。

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2019年6月の法語 [月々の法語]

無碍の光明 信心の人をつねに てらしたもう
Unhindered light constantly illumines the person of the entrusting heart.
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今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、6月は『尊号真像銘文』からの一節です。

「尊号」とは「南無阿弥陀仏」などの文字で表された名号の本尊を指し、「真像」は七高僧などの絵姿を指します。そして「銘文」は、その名号や絵姿に書かれた文書のことで、それらをまとめたものが『尊号真像銘文』となります。

6月の言葉は浄土七高僧の第六組、源信和尚の著書『往生要集』に書かれているものですので、源信和尚の真像に添え書きされているものと思われます。

少し長くなりますが、『尊号真像銘文』から該当箇所を抜き出してみます。
「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」
「我亦在彼摂取之中」といふは、われまたかの摂取のなかにありとのたまへるなり。
「煩悩障眼」といふは、われら煩悩にまなこさへらるとなり。
「雖不能見」といふは、煩悩のまなこにて仏をみたてまつることあたはずといへどもといふなり。
「大悲無倦」といふは、大慈大悲の御めぐみものうきことましまさずと申すなり。
「常照我身」といふは、「常」はつねにといふ、「照」はてらしたまふといふ。無碍の光明、信心の人をつねにてらしたまふとなり、つねにてらすといふは、つねにまもりたまふとなり。
「我身」は、わが身を大慈大悲ものうきことなくしてつねにまもりたまふとおもへとなり。摂取不捨の御めぐみのこころをあらはしたまふなり、「念仏衆生摂取不捨」のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。

ご覧になって気づいた方もいらっしゃるかもしれませんが、浄土真宗でよく拝読される「正信偈」の一節とほぼ同じです。正信偈は親鸞聖人が記されたものですが、様々な経典や高僧が書かれた書物を徹底的に読み込み、そこから引用なさっていることが分かります。



<私のあじわい>

親鸞聖人の語録である歎異抄の後序に、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という言葉があります。

阿弥陀如来が五劫もの永い時間をかけてお考えになった誓願は、よくよく考えてみると、ひとえにこの私、親鸞ただ1人のためのものであったのだなぁ」という意味になります。


阿弥陀如来はその全身である法蔵菩薩の頃、五劫の時間をかけて、一切の衆生をどのように救いとれば良いか思惟されました。

そして思惟の後、兆載永劫というさらに永い期間をかけて修行を完成されたと言われており、これらを合わせて「五兆の願行」と呼びます。


でも私は「阿弥陀さまのご苦労」と言われてもあまりピンと来ず、阿弥陀如来ともなればそれぐらいは平気でなさったのだろう、と漠然と捉えていました。


しかし最近、母の私に対する言動を見て、ふっと感じたことがありました。

母は認知症なので、同じ言葉を何度も繰り返します。私が母のところに行くと、必ず「元気か?」「風邪ひいてないか?」「寒くないか?」「暑くないか?」「心配ないか?」と何度も尋ねるのです。


小学生の時、「親という字は、親が子を心配して、木の上に立って見ている様子」と教わりました。

しかしもう40代半ばのいい大人を捕まえて「心配ないか」と言われても、いやいやそっちの方がよっぽど心配ですよと思うのですが、母に合わせて私も何度も「元気だよ、風邪ひいてないよ、寒くないよ、暑くないよ、心配ないよ」と応えます。


そのやり取りを繰り返しているうちに、ふっと「ああ、母が年老いて病気になってもまだ自分のことを気にかけ続けてくれているように、阿弥陀如来も長年の思惟とご修行でボロボロになりながらも、私たちのためにご苦労を重ねてくださったのではないだろうか」と感じたのです。


そして母から子への思い、特に認知症であればそこに思慮分別が入り交じる余地はなく、まさに「無碍の光明」、つまり遮るもののない光のような真っ直ぐな愛情となるでしょう。

そしてそれが「つねに てらしたもう」という言葉通り、常に私に向けられていると感じられます。


さらに今月の言葉では、その光は「信心の人」を照らすとあります。その部分の英訳「the person of the entrusting heart」を機械的に翻訳すると「常に心を委ねる人」となります。


親が子に無碍の愛情をかけると同時に、赤子は親に身も心も全て委ねます。そういった幸せな時間を過ごすことができれば、人は成長した後も心に芯を持つことができると思います。


また、そういった関係性を仏さまと築くことができれば、誰にも奪えない心の大黒柱となるのではないでしょうか。

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2019年5月の法語 [月々の法語]

十方の如来は衆生を一子のごとくに憐念す
The Tathagatas of the ten quarters compassionately regard each sentient being as their only child.
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今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、5月は『浄土和讃』の中で勢至菩薩を讃える「勢至讃」の一首です。また、カレンダーに書かれているのはひとつの和讃の半分ですので、まず全体を読んでみましょう。

超日月光この身には 念仏三昧教えしむ 十方の如来衆生を 一子のごとくに憐念す

実はこの和讃だけでは意味が完結しておらず、前後数首を併せてひとつの物語となっています。ですのでまず、前後も併せて現代語訳をします。

勢至菩薩は釈尊の御足を頂かれつつ申し上げるには、「はるかな昔、ひとりの仏が世に出られました。名を無量光と申します。その後、一劫にひとりずつ仏が世に出られ、十二劫が過ぎて最後の仏は超日月光仏と申します。

超日月光仏は私に念仏三昧を教えてくださいました。十方諸仏の慈悲を一身にそなえた阿弥陀仏は、人々を自分の一人子のように憐れみいつくしんでくださいます。

子が母を思うように、人々が阿弥陀仏を常に思っていると、いま眼前に、また未来に、ほどなく阿弥陀仏を必ず拝見できるでしょう。

十二劫の間に12の仏さまが世に出たと書かれています。これらの仏さまはそれぞれの名前がありますが、全て阿弥陀仏の化身であるとされています。またその順序は、よく声に出してお勤めをする「正信偈」の前半部分にも書かれています。


<私のあじわい>
釈尊は歴史上に実在した人物ですが、観音菩薩や勢至菩薩、阿弥陀仏は歴史上の人物ではありません。ですがこれらの和讃では、釈尊の目の前に勢至菩薩が額ずきながら阿弥陀仏について語るシーンが描かれているのが面白い部分です。

また、勢至菩薩を讃えるようでいて、その勢至菩薩が阿弥陀仏が教えてくれた念仏三昧や、全ての衆生を一人子のようにいつくしむ阿弥陀仏の慈悲について書かれているので、結局は阿弥陀仏を讃える内容になっているのも面白味を感じます。

和讃に「衆生を一子のごとくに憐念す」とあります。衆生とは生きとし生けるもの全てを指す言葉ですが、複数を表すこの言葉の後に「一子のごとく」と続きます。つまり数えきれない生命ひとつひとつを、我が一人子のように仏さまは憐れみいつくしんでくださっている、ということになります。


この部分を読むと、『歎異抄』の後序にある親鸞聖人の言葉「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」が思い起こされます。阿弥陀仏が、五劫もの長い年月をかけて考え尽くしてお建てになった誓願は、この私(親鸞)ひとりのためであったのだ」という受け止めです。

一見、傲慢な発言にも見えてしまうこの言葉ですが、もちろん仏さまの慈悲を自分が一身に受けている、という意味ではありません。阿弥陀仏の慈悲は衆生すべてに向けられているのですが、中でも自らの煩悩の海におぼれかかっているような凡夫にこそ、その慈悲は差し向けられています。

ですので親鸞聖人のこの言葉は傲慢とは正反対で、ご自身を非常に厳しく見て、自分のような者こそ阿弥陀仏の救いの対象なのだ、と捉えているからこその言葉になります。また、仏道というものは知識を蓄えることが目的でもなく、処世術でもなく、人を裁くための道具でもなく、ただただ自分自身を問題とするものだ、ということも表しているように感じられるのです。

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2019年4月の法語 [月々の法語]

真実の信心は かならず名号を具す
True and real entrusting to Amida is unfailingly accompanied by saying the Name.
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2018年1月から『歎異抄』を題材として法話会を進めてきましたが、2019年4月から真宗教団連合の法語カレンダーに戻ります。
今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれていますが、4月は親鸞聖人の主著である『顕浄土真実教行証文類』からの一節です。

前後の大まかな内容は…
至心・信楽・欲生の三心は、言葉は異なっているが、その意味はただひとつ「真実の一心」である。それを「金剛の真心」とも言い、また「真実の信心」とも言う。
「真実の信心」には名号を称えるというはたらきが備わっているが、名号を称えていても必ずしも「真実の信心」が備わっているとは限らない。
「一心」が大切なので天親菩薩は『浄土論』の始めに「我一心」とお説きになった。
…となっています。

<私のあじわい>
浄土真宗では「南無阿弥陀仏」のお念仏を大事にします。
1日に何回お称えしなさいとか、大きな声で称えなければならないという決まりはありませんが、とにかくお念仏が大切ですよ、と説いています。

先日、大切な恩師のお通夜に参列をしました。僧侶として尊敬する方で、私が今の道を歩んでいるひとつの原点となった方でもあります。

寺院の住職の通夜ですので、参列者にも多くの僧侶が並びます。だからでしょうか、あちこちで「なまんだぶ…」「なんまんだぶつ…」とお念仏の声が聞こえます。別に「皆さん一緒に称えましょうね」というタイミングではなく、思い思いに口から漏れ出しているのです。

これを耳にしながら私は、なかなかお念仏が出てこない自分に気がつきました。もちろん「皆さんご一緒に」とか「それでは合掌して」という時には出てくるのです。でもそれはクセのようなものではないか、格好がつくから称えているのではないか、と自問自答します。

それに比べ、周囲で息をするようにお念仏をしている方々はどうなのだろうか、と考えてしまいます。真実の信心が備わっていて、本人も気づかぬほど自然にお念仏を称えているのであれば素晴らしいことですが、外から見てそれは分かりません。
単に口グセになっっているだけかもしれない、または、そうすることが僧侶らしいから称えているのかもしれない……

恩師の通夜で余計なことを考え、思いは千々に乱れたまま通夜の読経が始まりました。もちろん普段慣れ親しんだお経ですが、手元に経本が無いので暗誦になります。しかも節が少し違うので余計なことは考えられず、自然と無心になっていきます。

そこでようやく自分の思い計らいを手放し、「我一心」という状態になることができたのです。そうまでしないと一心になれない自分を、恩師は無言で諭してくれたのでした。

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2019年3月の法語 [月々の法語]

今年は去年に引き続き、親鸞聖人のお言葉を弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
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第十条は歎異抄の中で最も短い条となっていますので、まずは前文をご覧ください。

念仏には無義をもって義とす。
不可称 不可説 不可思議のゆえにと仰せ候ひき。

これだけです。
しかし短いですが非常に深みのある内容で、またこれを説明することは大きな矛盾を孕んでいます。
なぜなら、「お念仏は言葉で説き尽くすことができない(不可説)」と書かれている、その内容を説明しなければならないからです。
でも人は、言葉以外ではなかなか思いを伝えられませんので、なんとかお話しをしてまいりたいと思います。

「義」には「意味・理由」という意味合いがあります(ややこしい言い回しですが)。ですので1行目は「意味や理由が無である、というわけです」となります。

ただここでの「無」は「無い、ナッシング」ということではなく、続く2行目にも書いてありますが、「人知の及ぶところではなく、はかりしれない」ということを表しています。

実はこれは浄土真宗だけではなく、仏教の他宗派や他宗教についても、その深奥は人知の及ばない、なかなか掴みきれないものだと思います。

たとえて言うと鰻のようなもので、鰻はヌルヌルとぬめって動き回るのでじっと掴み続けていることができません。一瞬掴んで人に渡そうとしても、ツルツルと落としてしまいます。
宗教が表す深奥もやはりじっと掴み続けていられないもので、仮に「よし、掴んだ」と思って人に説明しようとしても、なかなかうまくいきません。

また『夜と霧』の著者V.フランクルは「人生の意味を問うのは、たとえばチェスのチャンピオンに『最も良いチェスの手はどういうものか』と訪ねるようなもので、実際にはその時々に応じて違う展開になるので、最も良い手など無い」と答えるでしょう。人の生きる意味も同じで、実は人生が私たちに問いを投げ掛けているのです」と仰いました。

仏教は、古くは「仏道」と言いました。
道である以上、生涯をかけて歩み続けるものです。
なので事前に決まった「義」など無い「私の人生」を、真摯に歩んでいかなければならないのでしょう。

そしてその人生の羅針盤となり杖となる仏道を、私たちは聴き続けていくことが大切なのではないかと思います。

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