信心のひとは その心 すでにつねに 浄土に居す
The hearts of those who entrust themselves to Amida, Are already and always will be in the Pure Land.
『親鸞聖人御消息』より
今年のカレンダーの言葉は、親鸞聖人の様々な著作から抜粋されています。今月は親鸞聖人のお手紙「御消息」からです。このお手紙は正嘉元年10月10日の日付、聖人85歳の時に、現在の茨城県常総市に住していた性信房あてのお返事です。性信房からの質問状は残っていませんが、信心を得た人がどのような立場になるのか、についての質問のようです。
聖人のお返事は「信心を得た人は、お釈迦さまの次に仏になる弥勒菩薩と同じような立場になるので「弥勒とひとし」と言い、また正定聚・等正覚とも言います。その身は煩悩に染まったままではあるけれど、弥勒菩薩や仏さまと等しい存在になるのです。善導大師は『般舟讃』という書物で「信心を得た人は、そのこころはすでに常に浄土にあるのです。」というものです。
当時の一般民衆の生活環境は劣悪なもので、生きても地獄、死んでも地獄、というような気持ちで日々を生きていたのだと思います。そんな中で「あなたは弥勒さまや仏さまと等しい存在なのですよ」と伝える事は、死後への安心感や人生への希望、そして人間としての尊厳を与える言葉だったのではないでしょうか。
そして逆に「弥勒や如来と等しいんだ」と驕り高ぶる人には「とは言ってもその身は、煩悩に染まり縁があれば悪事を犯す存在なのだ」とも釘を刺しています。
同じ御消息の第2通に「信心を得た人は、悪い行いを嫌い離れるようなしるしがあらわれてくる」と書かれています。先日行われた青年大会で、ご講師の本多靜芳師はこの「しるし」についてこうおっしゃっていました。
江戸時代に現在の広島周辺の歴史について詳しく記された『芸藩通志』に、安芸門徒(安芸=広島は浄土真宗の熱心な門徒が多い)の特徴についてこう書かれています。
・神社祈祷をしない…阿弥陀仏のみが信仰の対象で、あれもこれもと拝まない。
・医師薬屋が多い…まじないや祈祷をしないので、医学が発達→富山の薬売りも同じ理屈。
・間引きが少ない…嬰児のいのちも「仏さまに成るいのち」と尊重する→人口が増え、出稼ぎや開拓民。
・養蚕業が少ない…養蚕は繭を作った蚕を茹で殺すから→ブータンの肉料理は、自然死した動物など。
・おたんやの市どまり…聖人の毎月命日に精進料理を食べるので、市が閉まる。
さて、今月の言葉の「こころが浄土に居す」ですが、傍から見ていかにも幸せそうだから心が浄土にあって、また不幸せそうだから心が地獄にある、というわけではないようです。
昔「バック・トゥ・ザ・フューチャー」という人気SF映画がありました。この映画の主人公マイケル・J・フォックスは若くしてスターになりましたが、30代でパーキンソン病を発症しました。絶望し、一時は人生を呪って酒におぼれて破滅的に過ごしていたそうです。
しかし病気を徐々に受け容れ、やがて「病気になる事は、何かを失う事だと思っていたが、実は今までの自分に「パーキンソン病」が付け足されるだけの事だった」と感得します。
そして「この病気にならなければ、僕はこれほど深くて豊かな気持ちになれなかったはずだ。だから僕は自分を「ラッキーマン」だと思うのだ」とまで言います。
誰もが自分の思いが叶うように願いますが、しかし願いが叶っている時の状態を無量寿経では「心塞意閉」すなわち「心が閉ざされ、肩ひじを張った状態」と表現されます。
逆に思いが叶わぬ時を「今得値仏」すなわち「阿弥陀仏のはたらきが届き、真実に目が開かれた状態」と表現されます。
欲求が思うままに叶う人生よりも、思い通りにならない人生を受け容れた時にこそ「こころが浄土に居す」となるのかもしれません。