今年三月の昼法話会にご出講頂き、多くの方に私の尊敬する師とご縁を結んで頂きました。一時間ほどご法話を頂き、その後の茶話会もたっぷりと歓談の時を過ごすことが出来ました。四月号(八十五号)にはその時の感想を転載させて頂いています。
昨年から体調を崩しておられ、最近は「命を終えた時について相談に乗って欲しい」と言われており覚悟はしていたものの、最期は思いがけず早足でした。
師として尊敬し、慈父のように慕っていた方を失い、空虚な心のままご遺志に従って通夜・葬儀のお手伝いをさせて頂きました。
思えば今年の一月、兄と慕う蒲池龍眼師が早世されました。
大切な方を失うたび、こう思います。
「娑婆で頑張っている浦上くん、彼は私の縁深い人だ」と浄土で他の仏さま方に自慢をさせてやるのだ、と。
そしていつか自分も浄土に往った時「尊い生涯を過ごしたね」と迎えて頂くのだ、と。
☆仏教の言葉☆
「往生の素懐」
真宗では人が亡くなる事を「往生」と言います。「困り果てる」という意味もありますが本来は仏教語で「浄土へ往き、仏として生まれる」という意味です。
また「素懐」は六十九号でも取り上げましたが、「かねてからの願い」という意味になります。ですので「往生の素懐を遂げる」とは「仏の浄土に生まれたいという願いが達成される」という意味になります。
では、往生の素懐を遂げられるのは、どういった方なのでしょうか。社会的に大きなな功績を残した方でしょうか? 厳しい修行を成し遂げた宗教者でしょうか? 長寿を全うした方でしょうか?
いえいえ、そうした立派な方ばかりではないのです。なぜなら「往生の素懐」は私たちの願いでもありますが、実はそれ以上に阿弥陀仏の「一切衆生を救い取りたい」という願いでもあります。
立派な人もそうでない人も、長寿の方も短い生涯だった方も、生まれ方、生き方、亡くなり方を問われずに往く世界が、阿弥陀仏の西方極楽浄土なのです。
先に往かれた方は仏として私たちを見守り、私たちもいつか大切な方の仏と成る。絶える事のない、いのちの繋がる世界がそこにはあるのです。