拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること
By bowing and paying respects to the buddha, I have come to realize it is reciprocated.
高光 大船

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。2月の言葉は明治生まれ、大正〜昭和期の金沢の大谷派僧侶、高光大船師の言葉です。実は昨年の2月も高光師でした。
 昨年2月の言葉は「人は法を求めるに止まって 法に生きることをわすれている」というものでした。仏法を求める状態からもう1歩進み、仏法に生きることの大切さを説いています。今月の言葉も、神仏を拝む段階から、阿弥陀仏から拝まれていたことに気付くという、1歩進むことの大切さを説いているように感じます。

 それにしても、仏さまが私たちを「拝む」とはどういうことでしょうか。普通は私たちが何か御利益を求めて神仏を「拝む」ものと捉えている方が大半だと思います。人間の力が及ばない範囲の欲求は、人間を超えた存在に頼るしかないと考え神仏を拝むのは、人間として自然なことです。大昔に比べて人間の力が及ぶ範囲は広がりましたが、人間の欲求も広がり続けているので、御利益を求める心も無くなることはありません。しかしそういった形で神仏を拝むのは、実は神仏の向こうにある、自分の欲の心を拝んでいることになるのではないでしょうか。

 話は少し変わりますが、私はhasunohaという僧侶によるQ&Aページの回答員をしています。いろいろな質問が来るのですが、人生の意味を問うような質問も少なくありません。自分の歩んでいる人生に有意義なものが見つけられなかったり、最終的に死んでしまうのに何故生きなければならないのかと考えたり、将来への不安から生きていくことがイヤになったり、と様々です。
 今月の言葉に当てはめると、自分の外側に「生きる意味」というものがあって、それが手に入るようにと拝んでいる状態ではないでしょうか。

 ナチスによって強制収容所に入れられ、九死に一生を得たフランクル氏は、その著書の中で『「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生が絶えずその時その時に出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。』と書かれています。

 強制収容所の中は、ほんとうに非人道的で劣悪な、そしていつ命を奪われるかわかならい、まさに地獄のような場所だったでしょう。その中で(殺されるのではなく)亡くなってしまう方は、もちろん体の強い弱いもあるでしょうが、希望を失った人が亡くなっていってしまうのだそうです。こんな劣悪な環境で、どうしたら希望を持てるのか不思議ですが、フランクル氏の言葉を借りれば「人生が私に問いを出している」ことに気がつくことが大切なのではないでしょうか。
 今月の言葉に当てはめれば、自分の外側に「生きる意味」があるのではなく、人生から「生きる意味に気づいてくれよ」と拝まれていることに「めざめる」ことなのでしょう。

 「めざめる」と言いましたが、仏教は「迷いからめざめる教え」と言われています。「覚める」とも書きますが、今月の言葉では「醒める」が使われています。余談ですが、両方合わせると「覚醒」でこれに「剤」がついたらいけないものになりますね(笑)。
 「醒める」を使う場合は、眠りからさめる時も使いますが、酔いからさめる時に使うことが多いそうです。「迷い」とは「真(ま)・酔い」から出来た言葉という説がありますが、自分の欲を拝む「迷い」の状態から、仏さまから「大切なことに気づいてくれよ」と拝まれていたのだと醒めていくのが、今月の言葉の意味ではないでしょうか。