わしひとりを めあての本願の ありがたさ
There is nothing more grateful than Amida’s Primal Vow, which is intended just for me.
花岡 大学

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。5月は、浄土真宗本願寺派の僧侶で京都女子大学名誉教授、小説家であり児童文学作家である花岡大学 師の言葉です。

 この言葉は親鸞聖人の語録とされる『歎異抄』後序にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」が元となっていると思われます。
 現代の言葉にすると「阿弥陀仏が五劫という長い時間をかけてお考えになった誓願をよくよく考えてみると、それはひとえにこの親鸞一人を救うためであったのだ。思えばはかり知れない罪業をもったこの身であるのに、その自分をたすけようと思い立ってくださった本願の、なんとありがたいことか」となるでしょうか。

 なぜ、全ての衆生を救うと誓われた阿弥陀仏の誓いを、親鸞聖人は自分ひとりのためだと受け止めたのでしょうか。そこには2つの意味があるように思います。
 ひとつは、自分こそがもっとも救われ難い罪悪深重の凡夫であるという自覚です。もっとも救われ難い自分が救われるのであれば、自分よりマシな他の衆生は必ず救われる、ということになります。
 もうひとつは、誰が救われる・救われない、あの人は大丈夫だ・あいつはダメだ、と人を裁くためではなく、あくまで自分自身を問題にするのが仏道だということでしょう。

 以前に聞いたご法話で、その方がまだ仏教を学び始めた頃、師に「あの犯罪者は救われるのか? 犬は救われるのか?」といつも他者を引き合いに尋ねていたのだそうです。ある時その師は「君はいつも自分以外のものを連れてくるなぁ」と諭されました。つまり、他者を裁くのではなく、自分自身を仏さまの照らす光のもとにさらけ出し、仏さまの救いを自分の問題として考えていかなければ、それは仏道ではない、ということなのだと思います。
 そこまで思いが至ると、今月の言葉のように「わしひとりを めあての本願」を「かたじけない」と感じられるようになるのではないでしょうか。

 先日「死の体験旅行」を受けてくれた真言宗の女性僧侶は「仏さまは私を決して見捨てない」ということを仰いました。これはその方が「自分は特別な存在だから仏が見捨てない」と思っているわけではありません。仏さまは全ての人、ひとりひとりを決して見捨てず、慈しんでくださっている。そのような理解があるからこそ出てきた言葉です。
 この感想を聞いて、真言宗と浄土真宗、宗派は違っても仏さまに対しての思いや信頼感、そして自分自身を問題とするという共通した部分があることに気づかされました。