「朝題目に夕念仏」ということわざがあります。
朝には天台宗や日蓮宗で大切にしている「南無妙法蓮華経」のお題目を唱え、夕には浄土教で大切にしている「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えるということで、俗に節操が無いことの喩えとして使われます。



先日、お付き合いのあるお寺から葬儀を頼まれました。長年患っていた男性が亡くなり、お通夜の無いいわゆる「一日葬」で、当日の朝に会場に向かいました。
会場に入ると、一瞬場所を間違えたかと思いました。なぜならホールに故人の遺品が並べてあるのですが、そこに「南無妙法蓮華経」と書かれたタスキのようなものが置いてあったからです。

私は浄土真宗の僧侶ですし、手伝いを頼まれたのも当然 浄土真宗のお寺さんです。ですから「南無阿弥陀仏」と書かれたものが置いてあるのなら分かるのですが、なぜ「南無妙法蓮華経」なんだろう…
不思議に思いながら祭壇に向かうと、棺の上には「立正佼成会」と書かれたハッピが掛けられていて、疑問が氷解しました。

つまり故人は、家の宗派としては浄土真宗だったけど、個人の信仰としては日蓮宗系の新宗教である立正佼成会を大切にしていたのです。喪主である奥さまも同様の信仰をお持ちのご様子で、とは言っても先祖代々守ってきた菩提寺に葬儀を頼まなければならないという、複雑な気持ちを抱えていらっしゃるようでした。

お参りと挨拶を済ませ、控え室で着替えながら、どんなご法話をすれば良いのか考えました。ご主人を失って悲しみ、また複雑な気持ちを抱いている喪主さんに、どんな言葉が届くだろう…。


時間になり、式場に入りました。私はいつも、読経の前に法話をさせて頂きます。
そこで「朝題目に夕念仏」の話をしました。現在では節操が無いという喩えに使われる言葉ですが、もともとは日本仏教の総本山とも言える天台宗においては、朝はお題目を唱え、夕はお念仏を称える。その合間には真言を口にすることもあるでしょうし、坐禅を組む事もあるでしょう。つまり本来の意味は、仏教を広く学ぶ事なんですよ、とお伝えしました。

そして、亡き方は浄土真宗のお寺の門徒でもあり、法華経を大切にする方でもありました。だから読経の最初と最後に、よろしかったらご一緒にお題目とお念仏を3回ずつおとなえしましょう、と話しました。

参列の家族親族は一所懸命に話を聞いていて下さいましたし、喪主である奥さまは話の途中から涙を流されていました。そして読経の最初と最後に3回ずつ、私が辿々しく唱えたお題目と、口に馴染んだお念仏に、皆さん声を合わせて下さいました。

浄土真宗の僧侶としては、けっして「正解」とは言えない行動だったかもしれません。けれど、故人が信じ大切にしていたことを蔑ろにしたくないと思っての行動でした。


式の後、喪主さんが近くに来て、何度も何度もお礼を言ってくれました。そして「夫は立正佼成会も一所懸命に信じていましたけど、お寺も大好きで毎月お参りに行っていたんですよ。お題目もお念仏も両方となえて頂いて、有り難うございました」と仰って頂き、ホッとしました。

ここ最近は「超宗派」、つまり宗派を超えて協力する事がひとつのムーヴメントになっています。私も「寺社フェス向源」や「自死・自殺に向き合う僧侶の会」「未来の住職塾」で宗派を超えたお付き合いをさせて頂いています。そのご縁があったからこそ、こんな話をする勇気を頂けて、またご遺族に安心して頂く事ができたんだな、と感謝の気持ちで胸が満たされました。