帰命は本願招喚の勅命なり
Entrusting yourself to Amida is the command of the Primal Vow calling to and summoning us.
『教行証文類より』
帰命は本願招喚の勅命なり
Entrusting yourself to Amida is the command of the Primal Vow calling to and summoning us.
『教行証文類より』
今年のカレンダーの言葉は、親鸞聖人の主著である『教行証文類(教行信証)』から抜粋されています。
今月の言葉のひと言め「帰命」は、法話会の最初にお勤めしている正信偈の冒頭に登場しています。1行目は「帰命無量寿如来」、2行目は「南無不可思議光」ですが、この2行はほぼ同じ意味を言い表しています。また「ナムアミダブツ」のお念仏も同意です。つまり帰命=南無=ナムで、無量寿如来=不可思議光(如来)=アミダブツとなります。
南無はインドの言葉「ナマス」が語源です。インドで人と人が会った時の挨拶は、合掌して「ナマス・テー」と言いますが、ナマスは「信頼する、任せる」の意でテーは「あなた」の意です。つまり両手を相手の前に出して、隠し事をしていない、武器など持っていない事を示して「私はあなたを信頼しています」と言っているのです。
また勅命は、一般的には天皇の命令を意味しますが、ここでは阿弥陀仏の仰せを意味します。
さて、本願についてです。
私は法事を追えた後に必ず法話をするのですが、お参りの方が1人や2人の時は一方的にお話をするのではなく、「何か気になる事、聞きたい事はありませんか? 私の分かる範囲でお答えします」と、対話をしています。急に言われても何も思いつかない方もいらっしゃいますし、質問をして下さる方もおられます。
先日おばあさん1人の法事があり、読経後「何かご質問は?」とお訊ねしました。ちなみにその日の法事はその方の夫の義母の法要でした。詳しく言うと、夫の父の再婚相手という事です。ですから本人から見るとかなり縁遠い方になるのですが、それでもお1人でも法要をするのは本当に頭の下がる事です。
それでおばあさんがおっしゃったのは「私は夫も夫の両親も全部ちゃんとお勤めをしてきました。そのお陰で、わざわざ『健康にして下さい、病気を治して下さい』とお願いしなくても、ちゃんと護っててくれています。よく四国に行って札所巡りをしますが、あるお寺の住職もその通りだと言ってくれました」という内容でした。
どうでしょう? 世間一般の考え方からすれば、なるほどと頷ける話かも知れません。また四国の札所という事は祈祷を重んじる真言宗寺院でしょうから、お参りをすればお護り頂ける、と言うのももっともです。
でも、例えばその住職が誰かのお見舞いに行ったとします。見舞いの相手がもし信心薄く、法事を勤めない相手だったらどうするのでしょうか? 筋を通すのであれば「お前は先祖を大事にしないから病気になるんだ、法事をしないから入院したのだ、自業自得だ」と言わなければならないと思うのです。しかしそんな事は言わないでしょう。
相手や状況によって言う事を変えるのを、良く言えば臨機応変と言いますが、悪く言えば二枚舌と言います。二枚舌を使うものを、私は本願とは呼べませんし、帰命(信じて任せる)する事は出来ません。
まぁ実際には、そこまで強く申せません。ひと通り聞き終えた私は「なるほど、そうなんですか。でも、ここのお寺の仏さんは、熱心にご法事をしてもしなくても、どんな人でも区別なく救ってくれる仏さんなんですよ。
それに私もあなたも、いつかは必ず病気になりますでしょ。病気になったり治ったりするのは、仏さんの責任でもお陰でもなく、人として生まれてきた以上、避けられない事じゃないですか」と言いました。
不服そうな顔をするお婆さんに「でも一所懸命にお参りして、それで気持ちが落ち着いて、元気でいられるという事はあるかもしれませんね」とひと言付け加えました。
ん…?これも二枚舌??