他力というは 如来の本願力なり
Other Power is none other than the power of Amida Tathagata’s Primal Vow.
『教行証文類より』
他力というは 如来の本願力なり
Other Power is none other than the power of Amida Tathagata’s Primal Vow.
『教行証文類より』
今年のカレンダーの言葉は、親鸞聖人の主著である『教行証文類(教行信証)』から抜粋されています。
今月の言葉は、もう何度もお伝えしているかもしれませんが「他力というのは阿弥陀如来の『衆生を救いたい』という願いである」ということです。
テレビなどでは「他力本願」という言葉が、本来の意味とは違う使われ方をよくします。本来の意味は上記の通りなのですが、いかんせんパッと見たままの意味で理解されてしまうのです。つまり「他人の力をあてにして、自分で努力をしない人」といった意味です。間違って認識されてしまう事が多い仏教語の中でも、ダントツに間違って使われている言葉ではないでしょうか。
先日お勤めした法事は、ちょうど年回りがよく33回忌と50回忌を一緒にお勤めしました。故人お二人はご夫婦だったのですが、両者ともに「誓」の文字が入っていましたので、これをテーマにお話をさせて頂きました。
お寺や神社や教会で「誓う」というと、どういうイメージがあるでしょう? おそらく一般には、私たち人間から神仏に誓いを立てる、と連想する人が多いのではないでしょうか。何か神さまから出された条件、例えば1日に何回のお祈りをしなければならないとか、そういった条件を守ります、と誓いを立てる。あるいは自分の念願を神仏に祈り、その念願が成就するように好きなものを絶つような誓いを立てる。時代劇などで「お百度参り」という光景が出てきますが、これも神仏に誓いを立てて行っているわけです。
ですが浄土真宗では、人間から仏に誓うのではなく、仏さまが私たちに誓いを立てているのです。大無量寿経というお経には、法蔵菩薩(阿弥陀如来の前身)が48の誓願を立てている事が記されています。そして一つ一つ「この誓いを守れないならば、私は決して仏になりません」と誓っておられるのです。48の近いの中で最も知られているのは第18の誓願で「人々が浄土に生まれたいと願って、ほんの10回でも私の名を呼んでくれたのなら、一人も漏らさず救いとる」という誓いです。
阿弥陀如来の名前を呼ぶとは、つまり「ナムアミダブツ」のお念仏を申すという事です。極端に言ってしまえば、浄土真宗ではこのお念仏が最も大切なのであって、他のお経を読んだり仏教について学んだり、賑々しく法要をしたりといった事は絶対に必要な事ではない、という事になります。けれど、そう確信するのも、なかなか難しい事ではないでしょうか。
先日、ひょんな事から火葬場でお勤めをする事になりました。色々事情があって通夜葬儀をせずに火葬をするのですが、特にお寺に縁がなく僧侶も呼んでいないと言う事でした。もちろん僧侶を呼ぶ呼ばないは自由ですし、最近は無宗教の通夜葬儀も行われています。「必要が無い」と思って呼ばない場合はそれで結構なのですが、事情があって呼びたくても呼べない、というのは悲しく切ない事です。ですのでご縁がありましたので、急きょお勤めをさせて頂く事になりました。
火葬炉の前で読経をし、お骨上げまで1時間、法名を決めたり色々な話をしていました。その中でその方がとても喜びながら「お坊さんを呼ぼうにも、知っているお寺もなくて困っていた。自分でお経を読もうとも思ったが、どのお経を読んだらいいか分からないし、読経の経験が無いから上手に読めない」とおっしゃったのです。
私は「お経は仏さまの教えですから、誰が読経してもその意味に変わりはないんですよ。有名な高僧が読経しても、始めてお経を読む人が読経しても、もちろん上手下手や声の善し悪しは差が出ますが、その尊さは一緒なんです」とお伝えしたのですが、そう言われたから「はいそうですか」とはなかなか思いにくい事だと思います。
私もこう言っていながら、尊敬する僧侶の読経と自分の読経では、何か違うような気持ちをぬぐい去る事は難しい事です。そういった思いを「自力のこころ」と言います。自分の行動に、さも意味があるように思いたい、思い上がりのこころです。そこを超えた所に「他力=如来の本願力」があるのではないでしょうか。