死んで往ける道は そのまま生きてゆく道です
The path that leads me to the Pure Land after death is itself the path I follow for living life.
東 昇(ひがし のぼる)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。3月の言葉は東昇さんのお言葉。恥ずかしながら東さんについて知らなかったので、まずはインターネットで調べてみると、中華料理屋さんの名前が出てきて困ってしまいました。
 しかしさらに調べてみると、驚くべきことがわかりました。東さんは僧侶ではなく科学者、しかもウィルス学や電子顕微鏡学の世界的権威として知られ、京都大学の名誉教授まで務められた方だったのです。科学と仏教、一見相いれないように見える2つの世界を東先生はどのように見ていたのでしょうか。

 「一見相いれないように見える」と書きましたが、実は優れた科学者は優れた哲学者であったり、深い宗教観を有する方が少なくありません。かのアルバート・アインシュタイン博士は「宗教なき科学は欠陥であり、科学なき宗教は盲目である」とおっしゃいました。
 また、私も先日知己を得た杏林大学の蒲生教授といろいろお話しをさせて頂いた中に、「最近日本でもグリーフケアということが言われるようになったが、日本では葬儀や法事などの仏事がグリーフケアの役割を担ってきた。仏事の意味や大切さを説かないで、グリーフケアだけが取り上げられるのは不十分ではないか」といった内容の言葉をお聴きしました。このことは僧侶の側からはよく言われることですが、僧侶でない蒲生教授の口から説かれたところに大きな意味があるように感じました(ちなみに蒲生教授は、近年アメリカでの終末期医療の研究をされています)。

 さて、今月の言葉ですが、東先生はいったいどういう思いを込めてこの言葉を発したのでしょうか。この言葉を見てパッと連想したのは、正岡子規の『悟りといふ事は、如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は、如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた』という言葉です。
 なにか「悟り」というと、目の前に猛獣が迫っていても、あるいは燃えさかる家の中にいても平然として過ごす(「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言った快川和尚のように)ことのように思ってしまいます。 
 しかし脊椎カリエスという重い病気にかかり、病床からほとんど動くことも出来ず、激痛に苛まされ続けて幾度となく自死を考えた正岡子規は、平気で死ぬことよりも平気で生きることの方が困難な道なのだと気づいたのではないでしょうか。
 法話会に来てこの話を聴いて頂いている方々、またはHPでこの文を読んで頂いている方々は、間違いなくその瞬間、生きていらっしゃいます。当たり前のことのようですが、生きるというのは、それだけで大きな意味のある、尊いことなのです。東先生は、そのことをおっしゃっているのではないでしょうか。

 もう一つ、東先生は「往」という字を用いています。これは「往生」の「往」です。往生とは、いのちを終えれば浄土に往って、仏として生まれるという意味の言葉です。つまり、亡くなった後の後顧の憂いが完全に断たれるということです。後顧の憂いが完全に断たれれば、あとは自分の人生がどんなに苦しいものであっても、その人生を全うして生きていこうという勇気に繋がるのではないでしょうか。
 東先生の母は、非常に熱心な念仏者だったそうです。 お念仏によって大きな安心を得て生きている母の背を見て育った東先生は、強い実感を持って「死んで往ける道は、そのまま生きてゆく道です」と説かれたのではないでしょうか。