出会わねばならない ただひとりの人がいる それは私自身
There is one person for sure whom I cannot help but meet with. That is my own self.
廣瀬 杲(ひろせ たかし)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。4月は、大谷大学の名誉教授・学長までお勤めになり、2012年にお亡くなりになった廣瀬 杲師のお言葉です。廣瀬師の言葉は昨年11月のカレンダーにも「衆生にかけられた大悲は無倦である」と掲載されています。

 さて、今月の言葉は、特に難しい仏教用語などは使われていませんが、逆に意味としては難しくなっているように感じられます。

 以前、「人の一生で、無くてはならない相手が200人いる」と聞いた事があります。何が根拠で「200人」なのか分かりませんが、親や兄弟、親戚などの血縁関係から、幼少期、少年期、青年期、壮年期、老年期とそれぞれの師や親友。仕事付き合いの上司や部下。もちろん自分にとって良い相手だけではなく、ライバルや嫌いな相手も含まれるでしょう。どの人が最も大切だとはなかなか言えませんが、今月の言葉は「出会わねばならない、ただひとりの人」として自分自身をあげています。

 では、「自分探しの旅」にでも出かければいいでしょうか? もちろん旅先で貴重な出会いや気づきがあったり、人生の転機を迎えることもあるかもしれません。しかしそれが「自分自身」なのかというと、違うように思います。

 自分自身に出会うというのは、自分をありのままに見つめる、一切の粉飾、虚飾なく見つめることではないかと思います。簡単に思えますが、とても難しいことです。なぜなら人はどこまでも我が身が可愛いのですから、自分の思いや行為を正当化したくなる本性を持っているからです。

 うろ覚えで申し訳ありませんが、ある兵士が戦時中に自分が殺してしまった相手が、後々夢に出てきてうなされることがあったそうです。今だったら病院に行ってPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されて薬が出されるかもしれません。しかし昔のことですから、お寺に行ったり神社に行ったりして、なんとか許して欲しいと一所懸命にお参りやお祓いをしてもらった、しかし一向に悪夢は止みません。

 「許して欲しい」という思いは、言い換えれば、自分のしたことは間違っていなかった、少なくとも仕方の無いことだったと思い込み、無かったことにしたいという思いでしょう。たとえば自分が手を滑らせてお皿を割った時、「お皿を割った」ではなく、人はとっさに「お皿が割れた」と言います。お皿ぐらいだったら「割れたんじゃなくて、割ったんでしょ」と言われれば素直に「ハイ、そうです」と言えますが、人を殺してしまったという重い事実はそうそう受け入れられません。しかし後悔の念が強くて、無かったことにもできないでいたのでしょう。

 元兵士はそこでお念仏に出会います。自らを「愚禿」と名のり、「恥ずべし、痛むべし」「虚仮不実のこの身」「心は蛇蝎のごとく」と徹底的に自分を見つめた親鸞聖人の言葉に触れたのかもしれません。
 そこでようやく、自分の行為を無かったことにしようとしている、自分の姿が見えたのではないでしょうか。そして、自分のしたことを引き受けて、忘れもせず、正当化もせず、共に生きていこうという覚悟が定まったのだと思います。

 中国の善導大師の言葉に「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」というものがあります。仏さまの教えは、自らを写す鏡のようなものだ、という意味ですが、元兵士はお念仏を鏡として、初めて自分自身と出会えたのです。そしてどんなに「虚仮不実」で「蛇蝎」のような自分でも、救わずにはおられないという、阿弥陀仏の願いとも。