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2011年1月の法語 [月々の法語]

聞思して 遅慮することなかれ

Hear and reflect on the truth that you are grasped, never to be abandoned by Amida; let there be no wavering or apprehension.

『教行証文類より』


 

 今年のカレンダーの言葉は、親鸞聖人の主著である『教行証文類(教行信証)』から抜粋されています。カレンダーの言葉だけですと「聞いたならば、疑いためらってはならない」という意味ですが、もとの文章はこの前に「摂取不捨の真言、超世希有の正法」とつきます。どちらも阿弥陀仏の「全ての衆生を救わずにはいられない」という誓願を指しています。要するに「阿弥陀仏の誓いを聴いたならば、疑いためらってはならない」という事でしょう。


 また「信じる」という事について、チベット仏教のダライ・ラマ法王のこんな言葉が有ります。

 「基本的には、仏教徒である人の姿勢は、はじめの段階では懐疑的でなければなりません。何でもすぐに受け入れて盲信するのではなく、それを分析して調べてみて、最終的にそれが本当に正しいという、ある種のはっきりした確信を得られたなら、初めて受け入れるわけです。そしてそれを信じるのです。」


 一見、まったく正反対の事を言っているように思えますが、実は「聞思」というのは仏教語で、本来は「 聞思修」という三文字の言葉です。

 聞は、仏の教えを聞く事。

 思は、聞いた教えについて深く考える事。

 修は、考えた事を元に修行をする事です。


 つまり、阿弥陀さまの誓いを聞くという事は、ただ単に耳で聞くという事ではなく、わが事として身にしみるような出来事があって、初めて本当に「聴いた」という事になるのだと思います。


 昨年11月、東京都東村山のお寺で、名古屋の同朋大学学長、尾畑文正師の法話を聴聞いたしました。尾畑師は私と同じように在家出身の方ですが、縁あって僧侶となり、仏教大学の学長をされています。


 尾畑師の子どもの頃の話ですが、病弱なお姉さんがいらしたそうです。母親はその病気を治そうと、あちこちの病院に連れて行き、それに飽き足らず「拝めば病気が治る」と評判の新興宗教にも熱心に通ったんだそうです。

 そんなある時、猛威を振るう伊勢湾台風がやってきて、お姉さんはおぼれ、翌日亡くなってしまいました。


 さて、尾畑師の母は「拝めば治る」という教えにすがっていたものの、娘の病気は全く良くならず、結局は災害に遭っていのちを落とす事になってしまった事に深く悲しみました。

 そして「もう、拝んで良い事があるなんていう教えはまっぴらだ」と、入れ込んでいた新興宗教と縁を切り、真宗の教えに深く帰依をしていったのだそうです。


 娘さんを亡くす前にも、お母さんは他の宗教の教えに触れる機会はあったのだと思います。特に尾畑師の生まれ育った地域は真宗のお寺の多い地域です。親戚の法事などに出れば、真宗の教えを聞く事もあったでしょう。

 けれど、病気で苦しんでいる娘を目の前にして、その時は阿弥陀仏の教えを耳で聞いてはいても、受け止められる状態になかったのでしょう。娘さんが亡くなってはじめて、聞・思・修という条件がととのったのではないでしょうか。


 また尾畑師も、そのお姉さんが言っていた「もし私がもう少し生きられるとしたら、仏教を勉強したい」という言葉が心に残っていて、後に尾畑師の進む道が定まっていったようです。

 まさに「聞思して 遅慮することなかれ」という道を、時間をかけて歩まれているのだと思います。


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