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2012年1月の法語 [月々の法語]

摂取の心光 つねに照護したもう

The all-embracing light of great compassion Illumines and protects us constantly.

『教行証文類より』


 今年のカレンダーの言葉は、親鸞聖人の様々な著作から抜粋されています。現代語訳をすると…

「阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂め取ってお護りくださる」となります。


 実はこの一文、なごみ庵の法話会でいつもお勤めしている「正信偈」の1節です(勤行集13ページ)。前後の文章では、阿弥陀仏の光が太陽の光に譬えられ、私たちの煩悩は光を遮る雲や霧に譬えられています。しかし曇りの日であっても太陽の光は地上に降り注ぐように、仏の光は私たちの煩悩に遮られる事は無いのです。


 逆に言えば、お念仏の教えに出会って往生が定まったとしても、それはお釈迦さまのように悟りを開く事とは違います。お釈迦さまですら、生きている間は煩悩や欲求とは無縁ではいられなかったでしょう。ただ、正しい智慧や見方によって煩悩をコントロールする事が出来たのです(二の矢を受けない、という表現をされます)。


 お釈迦さまですらそうなのですから、私たちは臨終の時まで、無明(愚かさ)と煩悩の炎の消えない身なのです。しかしそれでも、念仏に出会っての変化が無い、とは言えないのではないでしょうか。



 大リーグの松井選手の師である星稜高校 山下監督の言葉で…

「考え方が変わると、行動が変わる。

 行動が変わると、習慣が変わる。

 習慣が変わると、人格が変わる。

 人格が変わると、人生が変わる。」

というものがあります。一見、自力的な、いかにも監督の訓示という感じもします。しかし各文の真ん中に「おのずと」という言葉が隠されているのではないでしょうか。


 今までは、生きているという事に何の感慨もなく、ただ何となく生きていた。けれど親鸞聖人の言葉に触れると、自分がいかに人の世話になっているか、人に迷惑をかけているか、他の多くのものに生かされているのか。そういった事に気付かされます。少なくとも私自身はそう感じました。


 この考え方の変化が、私に何をもたらしたのか、それは自分ではよく分かりません。大して変わっていないのかもしれません。ちょっとした事ですぐ腹が立つのは子どもの時から変わりません。

 でも、その自分に気付く事は出来ます。ああ、また腹を立ててしまった。また欲望に流されてしまった。また怠けてしまった。そんな自分が良く見えるのです。


 それは、厚い煩悩の雲を持つ私を、その雲の上から仏さまの光が照らして、真っ暗闇にはしないでいて下さるお陰ではないでしょうか。


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