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2012年9月の法語 [月々の法語]

如来の願船いまさずは 苦海をいかでか渡るべき

If it were not the great ship of Amida’s Vow, How could we ever cross this great sea of suffering?

『正像末和讃』より

 今年のカレンダーの言葉は、親鸞聖人の様々な著作から抜粋されています。今月は親鸞聖人の「正像末和讃」からで、和讃の全体は以下の通りです。


小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ

如来の願船いまさずは 苦海をいかでか渡るべき

 「慈悲」という言葉がありますが、仏教ではこれを「慈」と「悲」に分けて考えます。「慈」は、我が子に楽を与えたい父の思い、「悲」は我が子を苦から守りたい母の願いとされ、与楽抜苦とも言います。

 またこの慈悲を、小慈悲・中慈悲・大慈悲と分類する考え方もあります。

 大慈悲は人間には持ち得ない如来のお心で、無縁の慈悲とも言われます。無縁という事ですから、自分に縁が有る無しに関係なく、全ての存在に深い慈悲の心を示す事を言います。

 中慈悲は仏教に出逢い、頭では対象の苦しみは仕方のないものと知りながら、手を差し伸べざるを得ない心です。

 小慈悲はいわゆる一般的な人情という程度で、気の毒な人を見て哀れみ助けたいと思う心です。

 親鸞聖人は、我が身はこの小慈悲すら無いのだ、と自己洞察をされました。そのような自分には、有情(一切の生けとし生けるもの)を救う事は思いもよらない事だ。阿弥陀仏の救いの船が無いならば、苦しみの海をどうして渡る事ができようか。そのような意味の和讃です。

 親鸞聖人は、自然災害にあえぐ人々に祈祷を頼まれ、途中までそれをしながら止めてしまった、という経験が有ります。また語録である『歎異抄』には、私たちがこの世で持つ慈悲は、徹底して救いきる事の出来ない中途半端なものだ、と書かれています。民衆の現実的な苦しみに対する慈悲は、聖人にとって大きなテーマの一つだったのでしょう。

 さて、私は最近「自死・自殺に向き合う僧侶の会」というグループに参加をしました。会の名前通り、自死に関する会です。活動には三本柱が有り、自死に関する相談を手紙でやり取りする「往復書簡」。年に一度自死者の追悼法要をする「いのちの日」。月に一度、大切な方を自死で亡くした方が集う「いのちの集い」です。

 色々な宗派のお坊さんが集まって活動をしていますが、活動の後には会議もあります。そこで様々な議題が上がりますが、会として自死に対してどういうスタンスをとるか、とコンセンサス(共通認識)を取ろうとするのですが、やはり宗派それぞれの考え方があるので、なかなか難しいです。

 この会に限らず、様々な宗派や宗教で集まって何かをする場合は、教義の部分を大胆に取っ払って、その目的に向かって人間として何が出来るのか、という考え方をした方が良いと感じています。

 話を戻しますが、仏教にはそもそも「輪廻」という考え方があります。いわゆる生まれ変わりですが、例えば自死をした人は、今回の人生で救われなくても、次に生まれ変わって救われれば良い、と考えるわけです。インド的な考え方では、生まれ変わり死に変わりを繰り返す中で、いつか輪廻の輪から抜け出せる事を願っているのです。

 しかし今の私たち日本人にとっては「今の人生」が尊いもので、できればそこで救われたい、と考える方が多いと思います。阿弥陀仏が一切衆生を救い取ると誓われた事は、つまり苦しみの輪廻を重ねる事なく、誰もが今生で救われていく道を示された、という事です。

 という事は、今の人生をかけがえのないものと受け取る私たちにとって、お念仏の教えは適していると言えるのではないでしょうか。


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