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仏道修行、人間修行 [その他色々]

お坊さんです、と言うと「修行が厳しいんですよね」「滝に打たれるんですよね」などとよく言われますが、浄土真宗は珍しい宗派で、いわゆる「修行」がありません。
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なぜかというと、宗祖の親鸞聖人ご自身は比叡山で厳しい修行をされたものの、どうしても消しきれぬ煩悩を自覚し、修行では救われぬ自分を見つめ続け、ついに至ったのが阿弥陀仏に救いとられてゆく道だったからです。

ですので他宗派のお坊さんが積むような修行は一切無く、天台宗や日蓮宗、臨済宗などの修行が厳しい宗派の僧侶の話を聞くと頭が下がる思いがしつつ、内心ホッとしてしまいます(笑)。

先日、その厳しい修行の体験談をお聞きする機会がありました。おひとりは日蓮宗の久住謙昭さんによる荒行堂のお話、もうおひとりは天台宗の小野常寛さんによる回峰行のお話です。
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(右が日蓮宗の久住さん、左が天台宗の小野さん)

まずは日蓮宗の久住さん。
毎年11月1日〜2月10日までの100日間、千葉県の大荒行堂に籠もり、1日7日の水行をします。水行以外の時間は読経や写経をし続け、食事はお粥が1日2回。寒さ、疲労、栄養も充分でない状況で、今でも途中で亡くなる方がいらっしゃるのだそうです。

そして天台宗の小野さん。
小野さんは、非常に有名な千日回峰行の導入編とも言える百日回峰行に挑みました。比叡山内を裸足に草鞋で飛ぶように駆け抜ける修行で、途中でやめる場合は自決しなければならないという厳しさです。また、小僧(研修)期間を経て回峰行に入り、終えた後は奉公という期間もあるので、実質丸1年ほど比叡山に籠もるのだそうです。

もともと親しくさせて頂いているお二人ですが、その経験談に聴き入ってしまいました。そして非常に意外だったのは、発表後の質疑応答で私の「なぜ修行をするのか?」という問いへのお二人の答えです。
久住さんは「悟るためというより、人を救い導く僧侶になるため、心身を鍛える」と仰いました。
また小野さんは「悟るというよりも、釋尊の追体験をしている」と仰いました。

私はそれまで、厳しい修行をする宗派というのは、悟りを得るために修行をしているのだと思い込んでいました。しかし、このふたりは「そうではない」と捉えているのです。特に小野さんは「回峰行をすると、自分のダメな所ばかりが見えてくる」と仰いました。

浄土真宗の僧侶の中には、修行を無駄なものと否定する方もいらっしゃいます。でも親鸞聖人は、厳しい修行の経験があってこそお念仏の道を選ばれたのですから、修行の経験は決して無駄ではなかったと私は思います。
またお釈迦さまも、6年間の苦行を経た後に悟りに至りましたが、その苦行があったからこそ、悟りに至れたのだと思います。

浄土真宗の僧侶は悟りを目指す仏道修行はしませんが、だからこそ研鑽を積むことが大切だと思っています。自分のことで言えば、傾聴や自死遺族に関わる活動は、悩める人々の苦しみが少しでも軽くなるように精進しています。いわば仏道修行ではなく、人間修行を積んでいると言えるのかもしれません。

厳しい修行をしても、それを一過性のものとしてしまえば、せっかくの努力が薄まってしまうように感じます。また修行が無いことで努力まで放棄してしまっては、なんのための僧侶か分かりません。
宗派によって考え方は違いますが、やはりお互いに理解することで分かり合える部分が大きくなるのだと思います。

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