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2018年9月の法語 [月々の法語]

今年は親鸞聖人のお言葉を、弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
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7月8月はお盆で法話会がお休みでしたので、3ヵ月ぶりの開催となりました。
1月の前序から順に進めてきましたが、6月にひとつ飛ばして第6条をお話しましたので、今月はひとつ戻って第5条です。

『歎異抄』は私たちの常識からすると驚くような言葉をテーマにして、そこから話が展開されていく場合が多くあります。それだけ弟子の唯円の記憶に、深く刻まれている言葉ということでしょう。

第5条で親鸞聖人は、「私は父母の供養のためにお念仏を称えたことは一度もありません」と口を開きます。


皆さんがお寺に行く場合、どんな目的で訪れるでしょうか?
観光だったり写経だったり色々な目的があるでしょうが、なにより一番多い目的は、亡くなった方の供養ではないでしょうか。お葬式やご法事など、様々な供養の形があります。

親鸞聖人はひとつの宗派を開いたほどのお坊さんですから、亡き親の供養も懇ろになさったんだろうな…と思ったら驚愕の「していない」発言です。
いったいどういうことなのでしょうか、親鸞さまがとても冷たい人だということでしょうか?

もちろんそうではありません。
親鸞聖人は言葉を続けます。

この世に生きる一切の生きとし生けるものは、何度も輪廻を繰り返す中で、いつか親子や兄妹だったかもしれない。

そして…

まずはお念仏によって自らが仏となり、そして自由自在に縁ある存在を救いとっていこう。

今生の親子や兄妹という関係の相手だけを救うのではない。
そして不十分な己の力でではなく、仏さまとなって自由自在に全てを救いとっていこう。

親鸞聖人は冷たいのではなく、広大無辺な慈悲の道を私たちに示してくださっています。

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あっちゃん

命の源を感じます。
わたしたちは皆、深い部分で繋がっているのですね。
by あっちゃん (2018-09-16 12:44) 

ボーズandカナコ

古代インドや仏教の観点では、人間も他の生命も繋がっていて、また人が仏になるという繋がりもあります (^人^)
by ボーズandカナコ (2018-09-16 20:24) 

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