2019年3月の法語 [月々の法語]
今年は去年に引き続き、親鸞聖人のお言葉を弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
第十条は歎異抄の中で最も短い条となっていますので、まずは前文をご覧ください。
念仏には無義をもって義とす。
不可称 不可説 不可思議のゆえにと仰せ候ひき。
これだけです。
しかし短いですが非常に深みのある内容で、またこれを説明することは大きな矛盾を孕んでいます。
なぜなら、「お念仏は言葉で説き尽くすことができない(不可説)」と書かれている、その内容を説明しなければならないからです。
でも人は、言葉以外ではなかなか思いを伝えられませんので、なんとかお話しをしてまいりたいと思います。
「義」には「意味・理由」という意味合いがあります(ややこしい言い回しですが)。ですので1行目は「意味や理由が無である、というわけです」となります。
ただここでの「無」は「無い、ナッシング」ということではなく、続く2行目にも書いてありますが、「人知の及ぶところではなく、はかりしれない」ということを表しています。
実はこれは浄土真宗だけではなく、仏教の他宗派や他宗教についても、その深奥は人知の及ばない、なかなか掴みきれないものだと思います。
たとえて言うと鰻のようなもので、鰻はヌルヌルとぬめって動き回るのでじっと掴み続けていることができません。一瞬掴んで人に渡そうとしても、ツルツルと落としてしまいます。
宗教が表す深奥もやはりじっと掴み続けていられないもので、仮に「よし、掴んだ」と思って人に説明しようとしても、なかなかうまくいきません。
また『夜と霧』の著者V.フランクルは「人生の意味を問うのは、たとえばチェスのチャンピオンに『最も良いチェスの手はどういうものか』と訪ねるようなもので、実際にはその時々に応じて違う展開になるので、最も良い手など無い」と答えるでしょう。人の生きる意味も同じで、実は人生が私たちに問いを投げ掛けているのです」と仰いました。
仏教は、古くは「仏道」と言いました。
道である以上、生涯をかけて歩み続けるものです。
なので事前に決まった「義」など無い「私の人生」を、真摯に歩んでいかなければならないのでしょう。
そしてその人生の羅針盤となり杖となる仏道を、私たちは聴き続けていくことが大切なのではないかと思います。
第十条は歎異抄の中で最も短い条となっていますので、まずは前文をご覧ください。
念仏には無義をもって義とす。
不可称 不可説 不可思議のゆえにと仰せ候ひき。
これだけです。
しかし短いですが非常に深みのある内容で、またこれを説明することは大きな矛盾を孕んでいます。
なぜなら、「お念仏は言葉で説き尽くすことができない(不可説)」と書かれている、その内容を説明しなければならないからです。
でも人は、言葉以外ではなかなか思いを伝えられませんので、なんとかお話しをしてまいりたいと思います。
「義」には「意味・理由」という意味合いがあります(ややこしい言い回しですが)。ですので1行目は「意味や理由が無である、というわけです」となります。
ただここでの「無」は「無い、ナッシング」ということではなく、続く2行目にも書いてありますが、「人知の及ぶところではなく、はかりしれない」ということを表しています。
実はこれは浄土真宗だけではなく、仏教の他宗派や他宗教についても、その深奥は人知の及ばない、なかなか掴みきれないものだと思います。
たとえて言うと鰻のようなもので、鰻はヌルヌルとぬめって動き回るのでじっと掴み続けていることができません。一瞬掴んで人に渡そうとしても、ツルツルと落としてしまいます。
宗教が表す深奥もやはりじっと掴み続けていられないもので、仮に「よし、掴んだ」と思って人に説明しようとしても、なかなかうまくいきません。
また『夜と霧』の著者V.フランクルは「人生の意味を問うのは、たとえばチェスのチャンピオンに『最も良いチェスの手はどういうものか』と訪ねるようなもので、実際にはその時々に応じて違う展開になるので、最も良い手など無い」と答えるでしょう。人の生きる意味も同じで、実は人生が私たちに問いを投げ掛けているのです」と仰いました。
仏教は、古くは「仏道」と言いました。
道である以上、生涯をかけて歩み続けるものです。
なので事前に決まった「義」など無い「私の人生」を、真摯に歩んでいかなければならないのでしょう。
そしてその人生の羅針盤となり杖となる仏道を、私たちは聴き続けていくことが大切なのではないかと思います。
re.「その時々に応じて違う展開になるので、最も良い手など無い」と答えるでしょう。の「」内の内容の真偽について。
V.フランクルの、名人の言の予想に関する説話は、その内容
が間違いであります。ゲーマーっていう人種は、ゲームに強
いからと言って、言う事が常にまともとも、限らないんで、
まあこう言われても、しかがないのかもですね。実際には
本職部分では、さすがに、間違わないんじゃないかと思いま
すが。
どのような経過で、その局面、次の特定手番(先手か後手か)
になったかに係わらず、最も良い手は特定のものだけです。
チェス・シャンチー・将棋ゲームは、その点が、倫理的規範
と全くズレていて、超現実的なんですね。(将棋史研究家)
by df233285 (2019-03-11 07:39)
コメント有り難うございます。
フランクルさんの仰りたいのはそういう局面の話ではなく、全体を通じてのことと私は理解しています。
つまり、チェスであればそのゲームの局面によって最も良い手はあるでしょうが、ゲーム開始から終了まで全体を通じて最も良い手というのは存在しないはずです。
人生も同様に、たとえば目の前で人がおぼれていて手にはロープがある、という局面では最も良い選択はありえますが、誕生から臨終までを通じて最も良い人生の送りかたというのは存在しない、ということかと思います。
by ボーズandカナコ (2019-03-11 08:48)
なるほど、外国語の訳は、日本語に完訳困難ですし、
原文は、その意味で書いてあるのかもしれないですね。
なお、文明の発達した今日でも、”葬式のとき機械が
坊さんの代わりを、遂行できた”という話は余り有りま
せんが。チェスや将棋の名人の代わりを、コンピュー
タが勤めるようになったという話が、ちらほら出始め
たのは、ゲームで考える内容が、現実的に見て、
御例示された、救命の手段に近い場合だけでしか、
無いためではないかと見られるようです。
by df233285 (2019-03-12 07:52)
私はチェスや将棋などはまったく疎いのですが、報道で人間対AIの報道は見ています。なるほどと思いました。
by ボーズandカナコ (2019-03-12 08:28)