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念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門 [月々の法語]

念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
Attaining Buddhahood through the Nembutsu is the true essence of the Pure Land way; the myriad practices and good acts are the temporary gate.
浄土和讃 大経意 第21首

 今月の和讃の全容は以下のようになっています。
   念仏成仏これ真宗 万行諸善これ仮門
   権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ
これを現代語訳すると…
・本願を信じ念仏ひとつで仏になるのが真実の教えである。
・多くの行を修め善を積んで成仏を期すのは仮の教えである。
・何が真実で何が仮設のものかをわきまえないから、
・真理そのままの真実報土がわからないのだ。
となります。またカレンダーの英訳を日本語に直訳すると…
「念仏を通して菩提を達成することは、浄土の方の本当の本質です。無数の実行と良い行為は、一時的な門です。(前半2行)」となっています。

 この和讃では、念仏の教えと他宗派の教えの違いを挙げています。他の宗派では、何らかの方法で自ら修行し、あるいは努力をし、善根功徳を積んで自らの能力で仏に成ろうとします。親鸞聖人はそれを「仮門」、つまり仮の方法であるとしています。
 対して、念仏によって仏に成ろうという自らの立場を「真宗」、つまり真実の教えだとしています。ちなみにここでの「真宗」とは宗派の名前ではなく「真実の教え」という意です。親鸞聖人はその著作で「浄土真宗」「真宗」という言葉を度々記していますが、これもやはり宗派名としてではなく「浄土の真実を顕した教え」、つまり師・法然上人の教えをこう表現しています。

 こうして真の教えと仮の門が示されました。しかしこの「念仏ひとつ」の教えはこの時代に花開いた新しい考え方であり、弾圧も受けました。誰もが納得してくれるわけではなかったのです。なので親鸞聖人はやや批判的に後半こう続けています。「権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ」つまり「真実と方便との違いがわからないから、ありのままの浄土をもわかる事が出来ないのだ」と。
 もちろん新しい教えが理解されるには時間がかかります。親鸞聖人も比叡山で20年の修行(仮門)をし、その後に法然上人(真宗)に出逢います。しかも出逢ってすぐに考え方が改まったのではなく、法然上人の元に百日間通い詰め、やっと弟子となりました。

 私たちもそうでしょう。大きな結果を得るには大変な努力精進をする事が当然で、努力をしないで良いなんてそんなうまい話があるわけがない、と考えてしまいます。特に「悟りを得る」という大業を果たすためには、それ相応の修行が必要なのだと考えます。しかしそれは、誰にでも当てはまる事なのでしょうか。
 禅宗の僧侶で、中野東禅という方がいらっしゃいます。この方が修行についてこうおっしゃっています。「修行主義の仏教では、個々の能力・実力によって差が生じ、その差が苦しみを生じる。これは一般社会のあり方と同じでしかない。」
 才能豊かな方であれば、厳しい修行をこなす事も出来るのでしょう。しかし私自身は厳しい修行などき出来そうもありませんし、仮に出来たとしても「修行をした」という事に慢心をしてしまいそうです。少なくとも私にとっては、念仏の教えこそが「真宗=真実の教え」として胸に響いてきます。
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髙山香月

小善をしているつもりですが、気にせず成り行きに任せなさいということでしょうね。
by 髙山香月 (2018-10-01 03:24) 

ボーズandカナコ

>髙山香月さま
ずいぶん前の記事にコメントをつけて頂き、驚きました。
自分の拙い文(今もあまり変わりませんが…)を読み直す機会になり、有り難いことです。

我が身に出来ることはせいぜい小善で、それも慢心の元になってしまっては元も子もありません。

多少なりとも良い行為をしたら、それをすぐに手放す。気にせず成り行きに任せる。
おっしゃる通りが良いのですが、それがなかなか出来ず難しいことです。
by ボーズandカナコ (2018-10-01 09:12) 

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