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2012年5月の法語 [月々の法語]

極重の悪人は ただ仏を称すべし

A person, extremely debased like myself, can only utter the Name of the Buddha.

『教行証文類・行巻(正信偈)』より


 今年のカレンダーの言葉は、親鸞聖人の様々な著作から抜粋されています。今月は親鸞聖人の主著『教行証文類』行巻からの一文で、法話会の最初にお勤めしている正信偈の一文でもあります(22ページ)。

 正信偈の後半は、浄土教に関係する高徳の7名の僧侶(浄土七高僧)を順に讃えた内容で、今月の言葉は6人目の源信和尚の業績について記されています。前後も含めた原文は…


極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中

煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我


現代語訳は…

極めて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。

私もまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、

煩悩が私の眼を遮り見る事ができないが、

阿弥陀仏の大慈悲の光明は私を見捨てる事なく常に照らして下さる。

となります。


 まず、今までもお話した事ですが、ここで言う「悪人」とは道徳的な悪人や、犯罪者の事を指すのではありません。善根功徳(悟りに至るための修行や、仏教繁栄のための寄進など)を積めない人々の事を「悪人」としています。


 正信偈に書かれている事は「阿弥陀仏の救いはその「悪人」が目当てなのだから、ただ念仏をしなさい」と勧めて下さっているのです。また「自分(源信)も阿弥陀仏の光の中だが、煩悩が邪魔をしてその光が見えない」とも述べられています。


 ここで気付かされるのは、源信僧都は高徳の僧侶として「お前たちのような悪人は…」と上からの目線で語りかけているわけではありません。「我もまた…」と、自分を悪人の側に置いています。

 またカレンダーの英訳文を再翻訳すると、「極重の悪人」の部分は「 人(私自身のようにとても質が下がる)」と訳されています。


 つまり、「悪人」を自分の外に設定するのではなく、自分自身を悪人だと見つめているのです。普通、人が他者を批判する時、自分の立脚地を批判される側には置きません。自分自身の立場を守りつつ、他者を批判するのです。

 しかし念仏に出逢うと、自分の立脚地を守る事が難しくなります。「なんと不完全な自分であるか、なんと恥ずかしいこの身であるか」そんな徹底した自己洞察の視線。この自己批判をする視点を頂くのが、念仏の功徳と言えるのではないでしょうか。


 インターネットで見つけたのですが、東京の心海寺という大谷派寺院の掲示板の言葉です。

『「私の煩悩」ではなく「私が煩悩」であるというのが、身の事実です』



 ただ、自己批判だけでは後ろ向きな考えと言われるかもしれませんが、念仏に出逢った人は同時に「強い明るさ」も得ているような気がします。自分を徹底的に厳しく見つつも、それを受け容れる事が出来る。

 それは「煩悩いっぱいのあなただけど、それで良いのですよ。そんなあなただからこそ、私は救い取りたいのですよ」という阿弥陀仏の誓いがあってこそです。


 幼い子どもがイタズラをして親に叱られた後に「ボクの事、嫌いになった?」と尋ねたとします。そんな時、優しい親は「あなたが良い子だから、私はあなたを好きなんじゃないの。あなたがあなただから、私はあなたを愛しているの」と答えるのではないでしょうか。


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