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2013年1月の法語 [月々の法語]

とにかくお慈悲の力はぬくいでなぁ

Without exception, the power of Amida’s compassion is warm and comforting.

足利源左

 今年のカレンダーの言葉は、様々な念仏者の言葉から選ばれています。

 1月の言葉は、妙好人として知られる源左さんの言葉です。妙好人とは、僧侶でない一般の浄土真宗信者で、特に信仰心が篤く、生活や言動にその信仰がかいま見える方々です。

 因幡、現在の鳥取県出身の方で、本名は足利喜三郎。青年期の名前が源左衛門なので、通称は「因幡の源左」。


 18歳の頃に父親を亡くしますが、父が亡くなる際「おらが死んだら、親さまをたのめ」と言われます。今でも北陸の浄土真宗門徒は阿弥陀さまのことを「親さま」と呼ぶそうですが、源左さんの父が言う「親さま」も阿弥陀さまのことです。

 父の言葉もあり、源左さんはお寺通いを始めますが、いくら聴いてもわからない。

 ある日、牛を連れて山へ草刈りに行きます。5束の草束をつくり、4束を牛に、1束を自分が担いで歩き始めますが、重いのでその1束も牛の背に乗せます。その瞬間、今までお寺で聴き続けても分からなかった教えが、スッと分かった、腑に落ちたのだそうです。

 おそらく、5束全てを牛に背負わせるのは可哀想だ、というのが源左さんの気持ちだったのでしょう。しかし自分で荷を背負うのがしんどくなった源左さんは「すまんのう」と思いながら牛に荷を任せたのでしょうか。

 でも牛にとっては4束も5束も同じようなもの。ゆうゆうと5束の荷を背負って歩き続けます。その姿に、自分にとっては背負いきれぬ重荷をものともせずに背負ってくれる存在が有る、という事に気づいたのではないでしょうか。それが阿弥陀さまだという事に気づいたのではないでしょうか。

 あっているかどうかは分かりませんが、理屈で言うとそういう事だと思います。でもこの理屈を分かったからと言って、自分自身が源左さんのような信心を頂けるわけではありません。信心は知識ではなく体験によって湧きおこるものだからです。

 宗教学を教える大学教授が、必ずしも篤い信仰心を持っているとは限りません。かえって知識が信仰の邪魔をする、という事があるように思えます。

 さて、今月の言葉ですが、他の妙好人同様、源左さんも自らを煩悩深い救われ難き者だと自覚しました。親鸞聖人も「愚禿」と名乗っていますし、天台宗の最澄さまも「底下の最澄」と言っています。

 ある時、一燈園の西田天香氏に「あんたも精出してお念仏申して、よい仏になんなされや」と言われると「先生さま、何をおっしゃるだいなあ。おらがやあな底下の泥凡夫に、なにが仏になるやあな甲斐性がござんしょうに。だっけどなぁ、親さまが仏にしてやるとおっしゃいますだけに、仏にしてもらいますだいなぁ」と答えたそうです。

 自己批判・自己反省が強いと暗くなる、と思われがちですが、今に残る源左さんの言葉はひょうきんで明るいものが多いのです。

・「子どもが障子を破りおるがなぁ。なして叱らんだないのう」と問われると「子どもの時分でなけらにゃ、破る時がないだけのう」

・年をとって腰が曲がり「爺さん、えらからあがや」と言われると「この爺めはちょうど田の草這うのに都合がええやあに出来ておつだがやぁ。人さんよりいっち楽でござんすけなぁ」

・夕立に遭ってびしょ濡れになった時「爺さん、よう濡れたのう」と言われると「ありがとござんす、花が下に向いとるで、有り難いぞなぁ」

 そんな源左さんですから、人から悩みを聞いたり、相談を持ちかけられる事も多かったようです。最後に、私が好きなエピソード、源左さんらしく、しかもとんちが効いて良いアドバイスになっているこの言葉です。

「わしゃ癇癪性でなぁ」と言われると「旦那さん、なんとあんたはええものを持っとなんすなぁ。癇癪は癇癪玉ちって宝ですけなぁ。宝っちゅうものはめったに人に見せなはんすなよ」


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