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2014年3月の法語 [月々の法語]

帰ってゆくべき世界は 今遇う光によって知らされる

The world to which we return is made known by this present light.

浅井成海

 今年のカレンダーの言葉は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれており、3月の言葉は4年前、2010年にお亡くなりになった浅井成海師の言葉です。浅井師は本願寺派の僧侶で、宗門校である龍谷大学の名誉教授をされていました。

 青年僧会誌に核となるものとして青巖寺住職、清水谷正尊師に原稿をお願いしています。この春に発行されたものに、ちょうど清水谷師が浅井師について書かれています。浅井師と、清水谷師のお父上が親しかったのだそうです。

 末期ガンが発見され苦しんでいたのでしょう、ご家族に「お念仏が出んなあ…でも大丈夫なんやあ」とおっしゃったのだそうです。

 お念仏、つまり「南無阿弥陀仏」は大丈夫、つまり浄土に生まれるための手段と、一般的にはとらえられていると思います。それはお経の中で「私の名を呼んでくれたものを必ず救う」という阿弥陀仏のこころが説かれているからです。

 けれど病に苦しむ浅井師は、その念仏すら口から出てこない。なのに「大丈夫なんやあ」と言っています。なぜでしょうか。それは、阿弥陀仏はお念仏を救済の条件にしているのではないことが、しっかりと分かっていらっしゃるからでしょう。今月の言葉を借りると、光に出遇って帰るべき世界を分かっている、となるでしょうか。

 …ちょっと分かりにくいでしょうか。これについて、仏教者であり医師でもある田畑正久先生のお言葉を紹介したいと思います。田畑先生は大分県の病院で院長をされているのですが、雰囲気で伝えてしまう僧侶と違い、仏教の微妙な部分をはっきりとした言葉に表して下さっています。

 「(自分が)凡夫と気付いた人は救われているのです。凡夫と本当に気付くのが難しいのです。分別が邪魔をしているのです。」

 分別、つまり理性は、自分をひとかどの人物だと思いたがっているのです。「私ごとき…」と謙遜したとき、相手に「そうですね、あなたごとき…」と言われたら腹が立つでしょう。

 でも反対に凡夫、つまりどうしようもない人間だと思えた時に救われているというのは、それは自分に対する執着を手放せているということです。仏教はあらゆる執着を手放すことを教えています。だから、「自分、アカンなあ」と思えるというのは、一見ネガティブに見えますが、非常に勇気のいることなのです。

 仏教にも様々な教えがありますが、浄土教ではそれを阿弥陀仏が後押ししてくれています。どんなダメなあなたでもいい、必ず見捨てず救うからね。そんな『よびごえ』に安心して、私たちは自分に対する執着を手放す瞬間を持てるのではないでしょうか。


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長さん

以下、あくまで個人的見解ですが。
多数現存するWEBの記録を拝見させていただいた限り、浅井成海教授については凡夫じゃないような気がしますね。
浄土の存在を確信されておられたので、大丈夫だと、心底思っておられたのではないのでしょうか。
当方のような、本当の凡夫はやっぱり、「南無阿弥陀仏」と口に出して言えないうちに弱ったら、往生は、相当危ないんじゃないんでしょうかねぇ。南無阿弥陀仏。<-実際に今までに、何回かは、発声してますが・・・
by 長さん (2014-03-27 11:35) 

ボーズandカナコ

>長さんさま
心配ないですよ、全ては阿弥陀仏の慈悲の中です。
おまかせ、おまかせ。
by ボーズandカナコ (2014-03-28 08:57) 

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