2014年8月の法語 [月々の法語]
拝まない者もおがまれている 拝まないときもおがまれている
Even those who do not revere, are held in reverence[ by the Buddha].
Even when we do not revere, we are still held in reverence.
東井 義雄
今年のカレンダーの法語は様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれており、8月は明治の末に兵庫県に生まれた(正確には京都生まれ)東井 義雄さんの言葉です。本願寺派の僧侶でもあるのですが、どちらかというと教育者としての面が有名です。
昨年ご紹介した北海道の大谷派寺院の坊守、鈴木章子さんと親交が深く、『癌告知のあとで』という著書のまえがきも書かれています。というより、癌告知を受けた鈴木章子さんにアドバイスをして出来上がったのがこの本だったのです。東井師は手紙にこう書かれました。
「如来さまは、今も現に在して普段にご説法をなさっているのですが、私たち、元気なときには、こちらの受信機の方に雑音が激しすぎて、ご説法を聞き逃しがちです。病気のときにこそ、何をさておいても、如来さまの今現在説法に耳を傾けさせていただきましょう」
この言葉を表すような鈴木章子さんの詩があります。
「ヘドロ」
体力が回復するにつれ こころに ヘドロがまとわりついてきた
癌告知のあとの あの数日間の 洗い流したような
われながら サッパリとした 清涼なこころが 汚れてゆくのがわかる
さて、今月の言葉です。私としては、前後を入れ替えた方が分かりやすいと思うのですが、いかがでしょうか。
「拝まないとき」とは、熱心にお念仏を申す者でも、常に仏さまに手を合わせていられるわけではありません。金子みすゞさんも「お仏壇」という詩の中で「朝と晩とに忘れずに、私もお礼をあげるのよ。そしてそのとき思うのよ。いちんち忘れていたことを。」と仰っています。まさに「拝まないときも おがまれている」のです。
そして仏さまは、手を合わせる気持ちの無い者にさえ、「どうか大切なことに気付いて欲しい、目覚めて欲しい」と手を合わせて下さっているのです。それが「拝まない者も おがまれている」ということでしょう。
私たちが大切なことに気付く時、それは飽くことなく思い続けて下さる仏さまの思いが実った時、と言えるのではないでしょうか。だからこそ謙虚な気持ちになって「気付かされた」「生かされている」という表現に結びついていくのだと思います。
そういった心境を、身近な例に置き換えて下さっている東井師の詩を紹介します。
「妻」
「何もしてあげることができなくてすみません」
ポツリとそんなことをいう 妻
「なんにもしてあげることができなくてすまん」のは こっちだ
着るものから たべるものから パンツの洗濯まで してもらってばかりで
「なにもしてあげることができなくて」いるのは こっちだ
しかも 妻に「すまん」といわれるまで
「すまんのはこっちだ」ということにさえ 気がつかないでいた
こっちこそ ほんとに すまん。
今月のは、「どんな存在も、それ自身が孤立して存在することはない。」という、意味にも取れる法語ですね。
by 長さん (2014-08-28 16:22)
>長さんさま
仏教は「縁起」の教えですからね。
仰る通りの意味にも捉えられると思います。
by ボーズandカナコ (2014-08-29 23:21)