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2014年9月 [月々の法語]

お念仏は 讃嘆であり 懺悔である
Nembutsu is the way to admire the Buddha and express remorse in his presence.
金子大榮

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれており、9月は明治14年生まれで昭和51年に95歳の生涯を閉じた金子 大榮さんの言葉です。金子師は真宗大谷派の僧侶で、思想家として非常に高名な僧侶のおひとりです。

 なごみ庵では毎年12月の報恩講で、金子師の記した「宗祖を憶ふ」という文章を表白に用いています。少し長いですが、引用します。

昔、法師あり、親鸞と名づく。
殿上に生まれ庶民のこころ有り、貧道となりて高貴の性を失わず。
すでにして愛欲の断ち難きを知り、俗に帰すれども道心を棄てず、
一生、凡夫にして大涅槃の終わりを期す。
人間を懐かしみて、人にしたしむ能わず、
名利の害なるを知りて、離れ得ざるを悲しむ。

流浪の生涯に常楽の郷里を慕い、孤独の淋しさに、万人の悩みを思う。
聖経をひも解くも文字を見ず、ただ言葉の響きを聴く。
正法を説けども師弟を言わず、ひとえに同朋の縁をよろこぶ。
本願を仰いでは身の善悪をかえりみず、
念仏に親しんでは自ら無碍の一道を知る。
人に知られざるを憂えず、ただ世を汚さん事を恐る。
己身の罪障に徹して、一切群生の救いを願う。

その人 逝きて数世紀、とこしなえに死せるが如し。
その人 去りて七百五十宥余年、今なお生けるが如し。
その人を憶いて我は生き、その人を忘れて我は迷う。
曠劫多生の縁、よろこびつくる事なし。



 もとの文章は「その人去りて七百年」なのですが、現代に合わせて「七百五十宥余年」としている以外はもとのままです。少し難しい文章かもしれませんが、これは金子師が親鸞聖人を讃えた、つまり讃嘆のことばです。

 神道の祝詞も神さまの徳を讃える部分があるそうですし、古代インドのヴェーダという古文書も、神々への讃歌が多く含まれるそうです。キリスト教にも讃美歌がありますので、およそ古今東西、宗教というものには神仏を讃えるという行為がつきものなのでしょう。

 讃嘆という言葉ですが、讃は「たたえる」と訓読みしますが、嘆は「なげく」と訓読みします。仏さまや親鸞聖人を「たたえる」のはわかりますが、なぜ「なげく」という文字も入っているのでしょうか。

 皆さんにも尊敬する人がいらっしゃるかと思いますが、その人の前に出ると、自分とその方との差を感じますね。差が大きいからこそ尊敬の念が湧いてくるのでしょうが、その対象が神仏となると、自分との差が果てしなく大きくなります。神仏を讃え、その前に自分自身をさらけ出した時、いかに己が愚かで浅はかな存在であるかを自覚し、懺悔の念が湧いてくるのではないでしょうか(ちなみに一般には「ざんげ」と読みますが、仏教では「さんげ」と読みます。意味合いとしては一般とさほど変わりません)。

 神仏という目に見えない大きなものに懺悔の念を抱くということは、自らを律し、高めていきたい、正しい道を歩んでいきたい、という思いに通ずるものでし。今の日本人は、心の中の神仏やご先祖さまの居場所が小さくなっているように思います。だからこそ、自分の欲望通りに行動をしてしまいやすいのではないでしょうか。心の中に尊いものの居場所があってこそ、人は豊かに生きられるのです。


H26.9.24追記
先輩僧侶2人からご指導を頂きました。

<藤尾師からのご指摘>
確か嘆の字は「あぁ」のような感嘆・感動の意があったはずです。だから「口へん」です。

讃嘆から懺悔への展開が厳しいです。
誤解を恐れず平易な表現をすると「阿弥陀様が大好きな私、がいるけれども、その私はとてつもなくダメダメです。阿弥陀様ごめんなさいm(_ _)m」
ということで、己の愚かさを表現している言葉として相当厳しいお言葉ですね。 


<佐波師からのご指摘>
『尊号真像銘文』(親鸞聖人 撰述の書物)の中に引かれている、智栄という方が善導大師を讃めたたえた文章があると思います。「称仏六字 即嘆仏 即懺悔」というものです。即懺悔には、「南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち無始よりこのかた罪業を懺悔するになるともうすなり」とあります。ですから、藤尾さんのお考えもよいかと思います。


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ボーズandカナコ

藤尾さんよりFB経由でコメント頂きました。
以下ペーストいたします。

確か嘆の字は「あぁ」のような感嘆・感動の意があったはずです。だから「口へん」です。

讃嘆から懺悔への展開が厳しいです。
誤解を恐れず平易な表現をすると「阿弥陀様が大好きな私、がいるけれども、その私はとてつもなくダメダメです。阿弥陀様ごめんなさいm(_ _)m」
ということで、己の愚かさを表現している言葉として相当厳しいお言葉ですね。
by ボーズandカナコ (2014-09-20 23:54) 

長さん

浄土真宗では、懺悔は有っても、告解の出しつくしは無いように思っています。阿弥陀様が、神経を集中されているのが、人間のうち、告解数無限大に近い、悪人のケースのように思えるからです。そういう方は、西洋式懺悔のつもりで念仏を生前し尽すのは、原則的に無理でしょう。ですんで、「さんげ」が西洋式十字架懺悔(ざんげ)とは、ちと違うんで、現代社会だと、この法語は日本語としては、仏教の専門家にしか、完全には日本語の意味が理解できない恐れがあるように思います。この例を機会に、こんご若者向けのWEBカレンダーは、別に御作成されてはどうでしょうか。
by 長さん (2014-09-22 11:03) 

ボーズandカナコ

>長さんさま
いつもご意見有り難うございます。
仰る通り、阿弥陀さまは全ての人々を平等に見守って下さっていますが、中でも「悪人」を注意して見守ってくれていますね。
ちなみにご存知と思いますが、「悪人」とは自らの至らなさに気付いた者のことです。

また、念仏が「私が修する行」であるならば告解の出し尽くしは出来ませんが、阿弥陀仏より賜ったお念仏なので、その心配は無いと私は思っています。
by ボーズandカナコ (2014-09-24 09:54) 

長さん

私には残念ながら「お念仏は 讃嘆であり 懺悔である」は、古文書の文の一種に見えてます。あらいざらい全部告解しないと、キリスト教では天国へは行けないので、今では「懺悔」という単語が、日本語ではその意味で広まってしまっているのですね。なおキリスト教のある新興宗派で、「神に対し全編告解なしでも天国行」というのがあり、異端として厳しく攻められていた話が、前に有ったように思います。その宗派の話を聞いて、「おっ。浄土真宗の仲間が西洋にも居たのか。」と、そのときその話を興味深く読んだ記憶が有りました。
by 長さん (2014-09-24 11:59) 

ボーズandカナコ

>長さんさま
難しい言葉でも、なるべく簡単な言葉で説明出来るよう、努力いたします。
by ボーズandカナコ (2014-09-24 20:41) 

いずみ

[いかに己が愚かで浅はかな存在であるか]

わたしは真宗のかたのこのような表現を聞くと息苦しくなります。
謙虚に自らを省みてそのように思うことは当然あると思います。ですが、どこか、煩悩具足の身、愚かな存在を自覚しましょうという働きかけを真宗の方のお話に感じてしまいます。これはわたしがそう勝手に思い込んでいるだけでしょうか?
和尚さん方はそのような働きかけはしていませんでしょうか?

わたしは誰でも、存在自体は尊いと思います。「ほとけ」となんら変わらないと思います。そして人には大きな無限の力が備わっていると思います。あらゆる問題を解決する力、新しいものを生み出す創造性、力は無尽蔵です。それは自分の力というより、自分以前の力、働き、はからいとも思います。

「愚か、浅はか」な行為、発言をしたり、こころで思うこともあると思いますが、それはその人そのものが原因ではなく、その人の物の見方、認識によるものと思います。エゴと呼ばれるものなどでその人に付着、付随するものに原因があると思います。

なぜ、卑下しなければならないのか?
正直そういつも感じています。お考え聞かせて頂けましたら幸いです。

わたしは南無阿弥陀仏の教えはすばらしいとおもっております。決して批判しているつもりはありません。ただ気になっております。


by いずみ (2014-10-13 23:28) 

ボーズandカナコ

いずみさま
初めまして、なごみ庵の浦上哲也と申します。コメントありがとうございます。

仰る通り、浄土真宗では「罪悪深重の凡夫を自覚せよ」という流れに話が傾く事が多いかもしれません。それを聞いて息苦しくなる方がいらっしゃるというのは、反省材料だと感じました。

特に、代々そのお寺の檀家で、自分で浄土真宗を選択したわけでもない方。その方が真宗の話を聞いて合わないと感じたら、法話は苦痛でしかないでしょうね。

ただ、法話は聞く場に足を運ばなければいいですし、菩提寺の宗派と別に信仰を持つのも可能です。そのあたりが日本の宗教環境の緩やかな良さでもあるでしょうか。


私もいずみさんと同じように、人間は尊い存在だと思っています。しかし浄土の教えが広まった平安末期〜鎌倉初期、大多数である庶民は権力者に省みられない存在でした。
「この世も、あの世も、地獄」であった庶民に「念仏で尊い仏になれるのだ」と説いたのです。私は市民革命の如き出来事だったと思っています。

当時の読み書き出来ない庶民には「ただ念仏せよ」と説かれたのでしょうが、それを説いた法然上人や親鸞聖人は俊才でした。
真面目に仏教を学び、修行をし、周囲からは一目も二目も置かれる存在だったのでしょうが、しかしその努力や能力とは全く別の次元で、自身を「救われざる存在」と認識していました。これが「罪悪深重の凡夫の自覚」ではないでしょうか。

いずみさんは「卑下」と仰いましたが、私は「自覚」だと思っています。でもそれが押し付けになってしまっては、いけませんね。

貴重なご意見、有り難うございました。
by ボーズandカナコ (2014-10-14 23:10) 

いずみ

丁寧にお返事頂きましてどうもありがとうございました。

時代背景を考えましたり、現代でも様々なタイプ、状況の人がいることを思いますと、そのような表現も当然とも思えました。

のどが渇いている人には水を、足の痛い人には杖をということかと思いました。

様々な形の救われ方、救い方があるわけですね。

ありがとうございました。
by いずみ (2014-10-15 09:27) 

ボーズandカナコ

いずみさま

そうですね。
そういった多様な人がいて、様々な状況や悩みがあるから、それぞれの宗派にそれぞれ価値があるのだと思います。

合掌
by ボーズandカナコ (2014-10-15 17:15) 

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