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2014年6月の法語 [月々の法語]

深い悲しみ苦しみを通してのみ 見えてくる世界がある
There is a world which becomes visible only through deep sorrow and suffering.
平野恵子

 今年のカレンダーの法語は様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれており、5月は岐阜県の飛騨高山にあるお寺の坊守さん、平野恵子さんの言葉です。

 平野さんは3人の子どもを授かって、妻として、母として、坊守として忙しい日々を過ごしていました。ところが39歳の時、体調に異変があって病院で検査をした結果、癌の告知を受けます。そして2年後、お亡くなりになります。
 闘病生活の中での著書には「病気にかかったというだけで、あらゆる優しさを一人占めしているのです。ありがたくて、どうしたらよいのか分からなくなります。でも、やっぱり今のお母さんに出来ることは、その優しさに目一杯甘えて喜ぶことだけなのです。」と書いておられます。

 平野さんには3人のお子さんがいらっしゃいましたが、最初に長男、次に娘さんが生まれましたが、この2人目のお子さんが重度の障害児として生まれ、やはりそのことを悲嘆したのでしょうか、自分と長男と長女、3人で死んでしまおうとまで思ったのだそうです。
 でもある日、長男が妹のことを「お母さん、由紀乃ちゃんは、顔も、手も、足も、お腹も、全部きれいだね。由紀乃ちゃんは、お家のみんなの宝物だもんね」と言ったのだそうです。

 それについて著書には「幼いあなたの、この一言が、おかあさんの目を、心を覚ましてくれたのです」と書かれ、また「気付いてみれば、由紀乃ちゃんの人生は、なんと満ち足りた安らぎに溢れていることでしょう。食べることも、歩くことも、何一つ自分ではできない身体をそのままに、絶対他力の掌中に抱き込まれ、一点の疑いもなく任せきっている姿は、美しくまぶしいばかりでした。」とも記されています。


 私たち人間は、どうしたって老・病・死を避けたいと思って暮らしています。もし選べるなら、誰だって心も体も健康で、溌剌とした人生を送りたいと願うでしょう。けれどその願い通りにはいかず、障害を持って生まれたり、怪我や病気に苦しめられたりするのですが、不思議なことにその逆境を乗り越える力も与えられる、ということです(必ずしもではありませんが)。

 今月の言葉を読んで最初に思い出したのが、ナチスの強制収容所に入れられていたヴィクトール・フランクルさんのことです。フランクル氏は、いつガス室に送られるか、いつ銃殺をされるかわからない、また劣悪な環境の中でも生きる希望を失わず、奇跡的に生還をした方です。他の収容所に送られたご家族は、みな殺されてしまいました。そのフランクル氏が書いたのが『それでも人生にイエスという』本です。どんな状況でも希望を失わず、逆境の中にも意味を見出したのです。

 もう一人思い出したのが、平野さんがいらした飛騨高山の中村久子さんです。彼女は幼い時に病気にかかり、両手両足を失ってしまいます。そんな久子さんを母親は心を鬼にして厳しく育て、自分の身の回りのことは自分で出来るように、さらに裁縫も家事も出来るように育て上げられました。
 後にお念仏に出会うことになる久子さんに、こんな歌があります。
「さきの世にいかなる罪を犯せしや 拝む手のなき我は悲しき」
 この歌では、自身の運命を受け入れつつも、せめて仏さまに手を合わせたい、と願う気持ちが表現されています。もう一首。
「手はなくも足はなくともみ仏の 慈悲にくるまる身は安きかな」
 この歌では、平野恵子さんの娘さん、由紀乃ちゃんのように、全てを仏さまに委ねた久子さんの姿が表されています。

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