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2018年10月の法話 [月々の法語]

今年の法話会は『歎異抄』のお話しをしていますが、10月は先日訪れた恐山の話をたっぷりさせて頂きました。
もう、話さずにはいられないという気持ちでした (^人^)

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恐山 2日目 [その他色々]

一夜明け、早朝の恐山は朝靄がかかり、より一層この世でないような気配に充ち満ちていました。
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ってこの写真、私ではなく早起きして恐山境内をランニングしたMさん撮影のものを使わせて頂きました。

地蔵殿と本堂で朝のお勤めがあり、朝食を終えたあと、南師じきじきに境内の案内がありました。

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火山性ガスのせいか、境内に草木はまばらで荒涼とした風景が広がっています。
写真の場所は「賽の河原」と呼ばれる場所。
幼くして亡くなった子どもが堕ちる場所で、「ひとつ積んでは父のため、ふたつ積んでは母のため」と石を積み上げるとこの世に生まれ変わることができる。
しかし積み上がろうとすると鬼がやってきて邪魔をする。

積み上がっている石は自然にできたものではなく、幼子を亡くして恐山を訪れた親たちが我が子を手伝おうと積んでいったものなのでしょう。
また、周囲に少し生えた草が、所どころ結んであります。
南師は「なんだか分かりますか?」と問いますが、誰も分かりません。
「我が子を追い回す鬼が、草に足を取られて転ぶようにと願って、親たちが結んでいくのです」という言葉を聞いて、胸が締めつけられるような気持ちになりました。

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この地蔵も亡き方を想うご遺族が持ち込み、徐々に増えていったものだそうです。
お地蔵さまですからね、石で出来ているから重いんです。
こんな重いものを、こんな山奥まで…重さよりも、想いの方が強いのでしょう。

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荒涼とした風景を通り過ぎると、そこには美しい極楽浜、そして宇曽利湖(うそりこ)が広がっています。
数年前に訪れた青年が、この美しさにフラフラと湖に入ってしまったそうです。
しかしこの美しさには理由があります。湖底からも火山性ガスが噴き出していて酸性度が高く、ほとんど生物が生息していません。
その青年は、3日間も眼が開かなかったそうです。

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本堂に戻ると、後方の棚の上に無数の花嫁人形が並んでいます。
これを見た瞬間、その意味に気づき、全身に鳥肌が立ちました。

皆さん、なぜ恐山に多数の花嫁人形があるかお分かりになりますでしょうか?
よくよく見ると(写真は加工していますが)、花嫁人形のケースには戒名や法名が書いてあり、若い男性の写真が入っています。
そう、未婚で若くして亡くなった息子のため、親御さんがあの世の花嫁を連れてくるのです。


南師は、「宗派それぞれの教義や作法があり、遺族の想いをその器に収めとろうとする。しかしその器に収まりきらず溢れだした想いが、恐山のような霊場に流れ込んでくるのでしょう」と仰いました。

浄土真宗では、亡き方はちゃんと成仏している、悩み苦しみの無い仏さまとなっている。
だから供養するのではなく、仏さまとして敬うことが大切です。
そう説きます。

けれど、誰もがそう納得できるわけではない。
亡き方に、何かしてあげたい、何かせずにはいられない。
その想いを、「供養は必要ないですよ」と切り捨ててしまってはいけないのだな。
「供養」の巨大な念が渦巻く恐山で、改めてそう感じさせられました。


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