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2015年10月の法語 [月々の法語]

世俗の論理の行き詰まることを教えるのが仏法
The Buddha Dharma teaches me of the impasses in secular logic.
栗山 力精(くりやま りきしょう)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。10月は浄土真宗本願寺派、福岡県の円徳寺住職、栗山力精師のお言葉です。

 この言葉は、栗山師が自坊の寺報に記した「人間として生きて行く上には、世俗の論理を無視することはできないことであろう。しかし世俗の論理の行き詰まることを教えるのが仏法なのである」という一文から採られています。

 仏教のことを「仏法」とも言います。「ブッダ(仏陀=悟った人)が説いた教え」であり「ブッダになるための教え」だから「仏教」です。またその教えは「法」とも呼ばれますので「仏法」となります。「法」の語源は「ダルマ」で「真実」を意味します。

 ちなみに浄土真宗で「戒名」と言わず「法名」と言うのは、「戒律を守れない私だけど、仏さまの法を聞き続けよう」という意思表明をした者の名前という意味です(けっして死者の名前ではありません)。

 さて、この「仏法」に対応する言葉が「世法」そして「王法」です。世法は世間一般の法則、つまり倫理や道徳のことです。「王法」は王様が決めた法則、現代で言えば法律でしょう。
 王法を守らなければ、刑務所に入れられてしまいます。世法を守らなければ、後ろ指を指される存在になります。では仏法を守らなければどうなるでしょう? 実は仏法を守ることは非常に困難なことですし、守れなかったからといって、刑務所に入れられることも無ければ後ろ指を指されることもありません。ですから普段私たちが生活する上で気にするのは、「王法>世法>仏法」ということになるでしょう。言い方を変えれば、守りやすい順番とも言えます。

 私が(あなたが、でも結構ですが)気の合わない相手と口論になったとします。その時カッとなって殴ってしまったら、王法に触れることになります。カッとなったけど手は出さずにこらえとしても、相手を罵ったりしたら世法の観点でNGになるでしょう。
 では仏法ではどうでしょうか。手も出さなかった、口にも出さなかった、心の中で「殴ってやりたい」と思ったけどグッとこらえた。王法にも世法にも触れません。しかし仏法では心の中で思っただけでも、実際に行ったと同じだとされるのです。「仏法を守るのは非常に困難」と前述したのは、これが理由です。

 「人間なんだから腹を立てることぐらいあるだろう、それもダメだなんて難しすぎる」と思われるかもしれません。でも、難しいからこそ仏教・宗教なのではないでしょうか。キリスト教にも「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」という言葉があります。これもやはり実行できないことです。 誰もが守れる内容、実践できるものであれば、それを守ったところで大した成果は得られません。困難なことだからこそ、自分を悟りに近づけてくれるのではないでしょうか。どうぞ皆さん、精進なさって下さい。

 ……とは言っても、なかなか精進できそうにありませんよね (^_^;) 
そんな私たちに開かれた道が、お念仏の教えです。自分がいかに至らない未熟な存在であるか。そこに気づいた時、自然と頭が下がる。自分への慢心や執着を手放した時にこそ見えてくる世界がある、ということではないでしょうか。

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2015年9月の法語 [月々の法語]

煩悩の嵐の中にも 念仏において本願の呼び声が聞こえてくる
Even amidst the tempest of self-centered desires, one can hear the calling of the Primal Vow in the working of Namo Amida Butsu.
正親 含英(おおぎ がんえい)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。9月は、真宗大谷派の僧侶で、1958〜1961年の間、大谷大学の学長を務めていらっしゃった 正親含英師のお言葉です。

 今月の言葉を見て、ちょうど1年前の なごみ庵だよりを思いだしました。昨年8月に広島で豪雨災害があったのですが、その報道の中で「過去にこの地域で起こった豪雨災害の教訓が活かされておらず、なぜ迅速に避難しなかったのか」との苦言が呈されていました。
 そんなとき浄土宗の井上広法さんが、平成10年の那須豪雨の際、その渦中にいた自身の経験を書いてくれました。 

 雷はひっきりなしに鳴り響き、停電のなか、雷光で本が読めるのではと思うほどだった。あまりの雷鳴に、部屋の中にもかかわらず、全ての金属を外した覚えがある。ただただ怖かった。
 豪雨は計り知れなく、このままこの世が沈没するのではと思うほどだった。もし避難せよと言われていたら果たしてできただろうか。十数年前の記憶を鮮明に蘇らせれば、それは難しかったのではないかと思う。

 今年も台風18号の影響で9月8日ごろから雨が降り続き、鬼怒川が決壊して大きな被害が出ています。ここ横浜もかなりの量の雨が降りましたが、被害の出ている地域では遥かに大量の雨が降り、不安で恐ろしい思いをされたことでしょう。可能な限り被害が小さく済むよう、念ずるばかりです。

 今月の言葉は、私たちの中に潜む煩悩を「嵐」と喩えています。とはいえ私たちの煩悩は、常に嵐のように荒れ狂ってばかりではいません。縁が整わなければ穏やかな時もありますが、でも決して消え去ったわけではなく、私たちの心の底でトグロを巻いているだけです。親鸞聖人も和讃で「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」とご自身の(つまり人間の)本性に触れていますが、縁に触れれば煩悩は鎌首をもたげ、暴れだすことでしょう。

 ひとたび煩悩が嵐のように暴れだせば、地鳴りのような豪雨の音、屋内でも身に付けた金属を外してしまうほどの雷鳴が響きます。私たちの生活に引き当ててみれば、突然の病気やケガ、天災や人災、そして死。そんな理不尽な出来事に出遭い、体力も消耗しきって、心も千々に乱れきった状態が、「煩悩の嵐」のまっただ中にいるということになります。

 私たちの人生は、理不尽の連続です。他人の目から見れば、それは「運が良かったね、悪かったね」という程度の話になってしまいますが、自分の身に起きれば理不尽きわまりない、それこそ「神も仏もあるもんか」という気持ちになります。
 その理不尽を「解消」するため、人間は法律を作ったり、科学や医学を発展させたり、土木工事を行ったり、あるいは兵器を造ってきました。でも、人間は新たな欲求をし続ける生き物ですから、それだけでは絶対に理不尽を「解消」することはできないのです。

 「解消」しようとする道に対して、「超える」道が仏教です。煩悩の嵐の中、私たちの耳に届き得るのはお念仏しかないのではないかと思います。むろん、念仏は呪文ではありませんから、今まで全く念仏に触れてこなかった方が突然それを称えても、目の前の問題が解決するなどということはありません。
 けれど念仏の教えに触れ、信じている人にとって、それは心強いものです。いえ、それでしか嵐を超える道はない、私にとってそれほど確かなものです。

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2015年6月の法語 [月々の法語]

ものが縛るのではありません ものをとらえる心に縛られるのです
Material wealth dose not tie us down. Rather, it is the intention to seize material wealth that does.
仲野 良俊

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。6月は、真宗大谷派の僧侶で、北海道教学研究所所長、京都の教学研究所所長を歴任された、仲野良俊師の言葉です。

 今月の言葉を見てふと頭をよぎったのは「二の矢を受けない」というお釈迦さまの教えです。私たちは目に留まったものや耳に聞こえたものに反応してしまいます。「綺麗な花だな」「美しい音楽だな」と感じるのは止めようがないのは、お釈迦さまでも同じことでしょう。その最初の反応が「第1の矢」です。
 しかし、それによって引き起こされる二次的な反応を起こさないようにすることが「二の矢を受けない」という教えです。先ほどの喩えでいうと「綺麗な花だな。これは何という花だろう。誰が育てた花だろう。引き抜いて持ち帰って家に飾ろうか…」と次から次へと湧き上がってくる思い。
また「美しい音楽だな。誰が演奏しているのだろう。その人はどんな人だろうか。自分のために曲を奏でてくれるだろうか…」と、やはり次から次へ湧き上がる思い。

 そういった思いが、欲望や執着となって、私たちを苦しめるのです。今月の言葉で考えると、自分の持ち物や、自分の家族や友人。そういった人やモノが自分を縛ろうとしているのではなく、そういった人やモノを自分の手元に置いておきたいと欲する心に、私たちは振り回され縛られてしまうのではないでしょうか。

 先日、和ろうそくを作るワークショップに参加してきました。お寺でも普段は洋ろうそくを使う場合が多く、和ろうそくについて、あまり詳しくは知りませんでした。
材料のロウは、小さなハゼの木の実から採るそおうです。そして和紙・イグサ・真綿から作られた芯に、溶かしたロウを手で塗り付けてろうそくを作っていきます。
 ほんの1本のろうそくを作るのに、どれだけの手間がかかるのだろうと気が遠くなる思いでした。そして頭に浮かんだのは「蛍雪の功」という言葉です。昔は、蛍を集めたり月明かりを雪に映して勉学に励んでいたのです。 現代ではスイッチひとつで真夜中でも煌々と明かりをつけることができ、その有り難さに改めて気づかされましたが、しかし私はきっと、その有り難みをすぐに忘れてしまうと思います。

 現代の私たちは、昔の王侯貴族よりも豊かな生活を送っています。夜に灯をともし、夏に部屋を涼しくし、冬には暖かくし、季節を問わず世界中の食べ物を食べることが出来ます。タイムマシンで大昔の人を現代に連れてきたら、どれだけ驚き感激するでしょうか。
 しかし人間はすぐに慣れてしまう動物ですので、大昔の人も半年もすれば現代の生活に慣れてしまうかもしれません。
つまり私たち人間は、今後どれだけ科学技術が発展して便利な世の中になっても、すぐにその有り難みを忘れ、それが当たり前だと思ってしまうのです。そうすると、「もっと、もっと」という気持ちが湧き上がってきます。

 仏教には「小欲知足(欲を少なくして、足りていることを知る)」や「唯吾知足(ただ吾、足るを知る)」という言葉がありますが、豊かさや便利さを追い求めないのは難しいことです。せめて、自分はモノや欲求に縛られているんだな、と自覚すれば、縛られすぎない生き方に一歩近づけるのではないでしょうか。

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2015年5月の法語 [月々の法語]

わしひとりを めあての本願の ありがたさ
There is nothing more grateful than Amida’s Primal Vow, which is intended just for me.
花岡 大学

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。5月は、浄土真宗本願寺派の僧侶で京都女子大学名誉教授、小説家であり児童文学作家である花岡大学 師の言葉です。

 この言葉は親鸞聖人の語録とされる『歎異抄』後序にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」が元となっていると思われます。
 現代の言葉にすると「阿弥陀仏が五劫という長い時間をかけてお考えになった誓願をよくよく考えてみると、それはひとえにこの親鸞一人を救うためであったのだ。思えばはかり知れない罪業をもったこの身であるのに、その自分をたすけようと思い立ってくださった本願の、なんとありがたいことか」となるでしょうか。

 なぜ、全ての衆生を救うと誓われた阿弥陀仏の誓いを、親鸞聖人は自分ひとりのためだと受け止めたのでしょうか。そこには2つの意味があるように思います。
 ひとつは、自分こそがもっとも救われ難い罪悪深重の凡夫であるという自覚です。もっとも救われ難い自分が救われるのであれば、自分よりマシな他の衆生は必ず救われる、ということになります。
 もうひとつは、誰が救われる・救われない、あの人は大丈夫だ・あいつはダメだ、と人を裁くためではなく、あくまで自分自身を問題にするのが仏道だということでしょう。

 以前に聞いたご法話で、その方がまだ仏教を学び始めた頃、師に「あの犯罪者は救われるのか? 犬は救われるのか?」といつも他者を引き合いに尋ねていたのだそうです。ある時その師は「君はいつも自分以外のものを連れてくるなぁ」と諭されました。つまり、他者を裁くのではなく、自分自身を仏さまの照らす光のもとにさらけ出し、仏さまの救いを自分の問題として考えていかなければ、それは仏道ではない、ということなのだと思います。
 そこまで思いが至ると、今月の言葉のように「わしひとりを めあての本願」を「かたじけない」と感じられるようになるのではないでしょうか。

 先日「死の体験旅行」を受けてくれた真言宗の女性僧侶は「仏さまは私を決して見捨てない」ということを仰いました。これはその方が「自分は特別な存在だから仏が見捨てない」と思っているわけではありません。仏さまは全ての人、ひとりひとりを決して見捨てず、慈しんでくださっている。そのような理解があるからこそ出てきた言葉です。
 この感想を聞いて、真言宗と浄土真宗、宗派は違っても仏さまに対しての思いや信頼感、そして自分自身を問題とするという共通した部分があることに気づかされました。

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2015年4月の法語 [月々の法語]

出会わねばならない ただひとりの人がいる それは私自身
There is one person for sure whom I cannot help but meet with. That is my own self.
廣瀬 杲(ひろせ たかし)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。4月は、大谷大学の名誉教授・学長までお勤めになり、2012年にお亡くなりになった廣瀬 杲師のお言葉です。廣瀬師の言葉は昨年11月のカレンダーにも「衆生にかけられた大悲は無倦である」と掲載されています。

 さて、今月の言葉は、特に難しい仏教用語などは使われていませんが、逆に意味としては難しくなっているように感じられます。

 以前、「人の一生で、無くてはならない相手が200人いる」と聞いた事があります。何が根拠で「200人」なのか分かりませんが、親や兄弟、親戚などの血縁関係から、幼少期、少年期、青年期、壮年期、老年期とそれぞれの師や親友。仕事付き合いの上司や部下。もちろん自分にとって良い相手だけではなく、ライバルや嫌いな相手も含まれるでしょう。どの人が最も大切だとはなかなか言えませんが、今月の言葉は「出会わねばならない、ただひとりの人」として自分自身をあげています。

 では、「自分探しの旅」にでも出かければいいでしょうか? もちろん旅先で貴重な出会いや気づきがあったり、人生の転機を迎えることもあるかもしれません。しかしそれが「自分自身」なのかというと、違うように思います。

 自分自身に出会うというのは、自分をありのままに見つめる、一切の粉飾、虚飾なく見つめることではないかと思います。簡単に思えますが、とても難しいことです。なぜなら人はどこまでも我が身が可愛いのですから、自分の思いや行為を正当化したくなる本性を持っているからです。

 うろ覚えで申し訳ありませんが、ある兵士が戦時中に自分が殺してしまった相手が、後々夢に出てきてうなされることがあったそうです。今だったら病院に行ってPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断されて薬が出されるかもしれません。しかし昔のことですから、お寺に行ったり神社に行ったりして、なんとか許して欲しいと一所懸命にお参りやお祓いをしてもらった、しかし一向に悪夢は止みません。

 「許して欲しい」という思いは、言い換えれば、自分のしたことは間違っていなかった、少なくとも仕方の無いことだったと思い込み、無かったことにしたいという思いでしょう。たとえば自分が手を滑らせてお皿を割った時、「お皿を割った」ではなく、人はとっさに「お皿が割れた」と言います。お皿ぐらいだったら「割れたんじゃなくて、割ったんでしょ」と言われれば素直に「ハイ、そうです」と言えますが、人を殺してしまったという重い事実はそうそう受け入れられません。しかし後悔の念が強くて、無かったことにもできないでいたのでしょう。

 元兵士はそこでお念仏に出会います。自らを「愚禿」と名のり、「恥ずべし、痛むべし」「虚仮不実のこの身」「心は蛇蝎のごとく」と徹底的に自分を見つめた親鸞聖人の言葉に触れたのかもしれません。
 そこでようやく、自分の行為を無かったことにしようとしている、自分の姿が見えたのではないでしょうか。そして、自分のしたことを引き受けて、忘れもせず、正当化もせず、共に生きていこうという覚悟が定まったのだと思います。

 中国の善導大師の言葉に「経教はこれを喩ふるに鏡のごとし」というものがあります。仏さまの教えは、自らを写す鏡のようなものだ、という意味ですが、元兵士はお念仏を鏡として、初めて自分自身と出会えたのです。そしてどんなに「虚仮不実」で「蛇蝎」のような自分でも、救わずにはおられないという、阿弥陀仏の願いとも。

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2015年3月の法語 [月々の法語]

死んで往ける道は そのまま生きてゆく道です
The path that leads me to the Pure Land after death is itself the path I follow for living life.
東 昇(ひがし のぼる)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。3月の言葉は東昇さんのお言葉。恥ずかしながら東さんについて知らなかったので、まずはインターネットで調べてみると、中華料理屋さんの名前が出てきて困ってしまいました。
 しかしさらに調べてみると、驚くべきことがわかりました。東さんは僧侶ではなく科学者、しかもウィルス学や電子顕微鏡学の世界的権威として知られ、京都大学の名誉教授まで務められた方だったのです。科学と仏教、一見相いれないように見える2つの世界を東先生はどのように見ていたのでしょうか。

 「一見相いれないように見える」と書きましたが、実は優れた科学者は優れた哲学者であったり、深い宗教観を有する方が少なくありません。かのアルバート・アインシュタイン博士は「宗教なき科学は欠陥であり、科学なき宗教は盲目である」とおっしゃいました。
 また、私も先日知己を得た杏林大学の蒲生教授といろいろお話しをさせて頂いた中に、「最近日本でもグリーフケアということが言われるようになったが、日本では葬儀や法事などの仏事がグリーフケアの役割を担ってきた。仏事の意味や大切さを説かないで、グリーフケアだけが取り上げられるのは不十分ではないか」といった内容の言葉をお聴きしました。このことは僧侶の側からはよく言われることですが、僧侶でない蒲生教授の口から説かれたところに大きな意味があるように感じました(ちなみに蒲生教授は、近年アメリカでの終末期医療の研究をされています)。

 さて、今月の言葉ですが、東先生はいったいどういう思いを込めてこの言葉を発したのでしょうか。この言葉を見てパッと連想したのは、正岡子規の『悟りといふ事は、如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は、如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた』という言葉です。
 なにか「悟り」というと、目の前に猛獣が迫っていても、あるいは燃えさかる家の中にいても平然として過ごす(「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言った快川和尚のように)ことのように思ってしまいます。 
 しかし脊椎カリエスという重い病気にかかり、病床からほとんど動くことも出来ず、激痛に苛まされ続けて幾度となく自死を考えた正岡子規は、平気で死ぬことよりも平気で生きることの方が困難な道なのだと気づいたのではないでしょうか。
 法話会に来てこの話を聴いて頂いている方々、またはHPでこの文を読んで頂いている方々は、間違いなくその瞬間、生きていらっしゃいます。当たり前のことのようですが、生きるというのは、それだけで大きな意味のある、尊いことなのです。東先生は、そのことをおっしゃっているのではないでしょうか。

 もう一つ、東先生は「往」という字を用いています。これは「往生」の「往」です。往生とは、いのちを終えれば浄土に往って、仏として生まれるという意味の言葉です。つまり、亡くなった後の後顧の憂いが完全に断たれるということです。後顧の憂いが完全に断たれれば、あとは自分の人生がどんなに苦しいものであっても、その人生を全うして生きていこうという勇気に繋がるのではないでしょうか。
 東先生の母は、非常に熱心な念仏者だったそうです。 お念仏によって大きな安心を得て生きている母の背を見て育った東先生は、強い実感を持って「死んで往ける道は、そのまま生きてゆく道です」と説かれたのではないでしょうか。

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2015年2月の法語 [月々の法語]

拝むとは 拝まれて居た事に 気付き醒めること
By bowing and paying respects to the buddha, I have come to realize it is reciprocated.
高光 大船

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。2月の言葉は明治生まれ、大正〜昭和期の金沢の大谷派僧侶、高光大船師の言葉です。実は昨年の2月も高光師でした。
 昨年2月の言葉は「人は法を求めるに止まって 法に生きることをわすれている」というものでした。仏法を求める状態からもう1歩進み、仏法に生きることの大切さを説いています。今月の言葉も、神仏を拝む段階から、阿弥陀仏から拝まれていたことに気付くという、1歩進むことの大切さを説いているように感じます。

 それにしても、仏さまが私たちを「拝む」とはどういうことでしょうか。普通は私たちが何か御利益を求めて神仏を「拝む」ものと捉えている方が大半だと思います。人間の力が及ばない範囲の欲求は、人間を超えた存在に頼るしかないと考え神仏を拝むのは、人間として自然なことです。大昔に比べて人間の力が及ぶ範囲は広がりましたが、人間の欲求も広がり続けているので、御利益を求める心も無くなることはありません。しかしそういった形で神仏を拝むのは、実は神仏の向こうにある、自分の欲の心を拝んでいることになるのではないでしょうか。

 話は少し変わりますが、私はhasunohaという僧侶によるQ&Aページの回答員をしています。いろいろな質問が来るのですが、人生の意味を問うような質問も少なくありません。自分の歩んでいる人生に有意義なものが見つけられなかったり、最終的に死んでしまうのに何故生きなければならないのかと考えたり、将来への不安から生きていくことがイヤになったり、と様々です。
 今月の言葉に当てはめると、自分の外側に「生きる意味」というものがあって、それが手に入るようにと拝んでいる状態ではないでしょうか。

 ナチスによって強制収容所に入れられ、九死に一生を得たフランクル氏は、その著書の中で『「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。
私たちは、人生が絶えずその時その時に出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。私たちが生きていくことは答えることにほかなりません。そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。』と書かれています。

 強制収容所の中は、ほんとうに非人道的で劣悪な、そしていつ命を奪われるかわかならい、まさに地獄のような場所だったでしょう。その中で(殺されるのではなく)亡くなってしまう方は、もちろん体の強い弱いもあるでしょうが、希望を失った人が亡くなっていってしまうのだそうです。こんな劣悪な環境で、どうしたら希望を持てるのか不思議ですが、フランクル氏の言葉を借りれば「人生が私に問いを出している」ことに気がつくことが大切なのではないでしょうか。
 今月の言葉に当てはめれば、自分の外側に「生きる意味」があるのではなく、人生から「生きる意味に気づいてくれよ」と拝まれていることに「めざめる」ことなのでしょう。

 「めざめる」と言いましたが、仏教は「迷いからめざめる教え」と言われています。「覚める」とも書きますが、今月の言葉では「醒める」が使われています。余談ですが、両方合わせると「覚醒」でこれに「剤」がついたらいけないものになりますね(笑)。
 「醒める」を使う場合は、眠りからさめる時も使いますが、酔いからさめる時に使うことが多いそうです。「迷い」とは「真(ま)・酔い」から出来た言葉という説がありますが、自分の欲を拝む「迷い」の状態から、仏さまから「大切なことに気づいてくれよ」と拝まれていたのだと醒めていくのが、今月の言葉の意味ではないでしょうか。

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2015年1月の法語 [月々の法語]

称えるままが つねに御本願の みこころを聞くことになる
Simply saying Namo Amida Butsu is itself hearing the significance of Amida’s Primal Vow.
香樹院 徳龍

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。1月は、江戸時代の真宗大谷派の僧侶、 香樹院徳龍さんの言葉です。ここ数年、このカレンダーの法語は、明治〜昭和期の仏教者の言葉から採られていますので、江戸時代の方は少し珍しいですね。
 細かい生涯などは調べられなかったのですが、「 香樹院語録」という書物も出ているようで、多くの名言を遺した方のようです。

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2014年11月の法語 [月々の法語]

衆生にかけられた大悲は無倦(むけん)である
Great Compassion for sentient beings is untiring.
廣瀬 杲(ひろせ たかし)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。11月は、大谷大学の名誉教授・学長までお勤めになり、一昨年2012年にお亡くなりになった廣瀬 杲師のお言葉です。
 私も恥ずかしながら詳しくは存じ上げなかったのですが、特に歎異抄について深い研究をされておられた方だったそうです。

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2014年10月の法語 [月々の法語]

ただ念仏せよ 念仏せよ 大悲回向の南無阿弥陀仏
Just utter the Nembutsu.  Just the Nembutsu! It is an endowment from Amida’s Great Compassion. Namu-Amida-Butsu!
梅原真隆

今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれており、10月は明治18年富山県生まれ、昭和41年に80歳の生涯を閉じた 梅原真隆さんの言葉です。梅原師は浄土真宗本願寺派の僧侶でした。

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