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2016年11月の法語 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
12月は報恩講法要になり、通常の法話会はお休みです。
ですので最終回となる11月は、以下の12行をお話させて頂きました。

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

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さて、正信偈の最終回は、浄土七高僧の第七祖、源空上人(法然上人)です。
法然上人は、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の直接のお師匠さまであり、生涯敬愛し続けた方でもあります。

幼名は勢至丸、現在の岡山県に生を受けました。
父親は押領使(おうりょうし)の漆間時国。「おうりょう」なんて言うと会社のお金を使い込む人かと思ってしまいますが、それは「横領」。押領使は、現在で言う地方警察署の署長さんのような立場。いわゆる武人でした。

勢至丸が9歳の時、漆間時国は対立関係にあった明石貞明に夜討ちをかけられ、重傷を負い、やがて死に至ります。今際の際、時国は息子を呼び寄せこう言います。
時国「お前も武家の子、きっと私の仇を討つのだぞ…」

……ではありません。
実際には「お前が仇を討てば、やがて相手の子どもがお前の命を狙うだろう。仇討ちは仇討ちを生み、怨みは怨みを生む。お前は仇討ちなど忘れ、仏門に入って私の菩提を弔ってほしい…」という内容を息子に告げました。

お釈迦さまの言葉に「怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそ止む」という言葉があります。時国は息子を、血で血を洗う修羅道から救ったのです。


さて、やがて仏門に入った勢至丸は、あまりの天才ぶりに比叡山で学ぶこととなります。そしてそこでも異才を放ち、「智慧第一の法然房」と呼ばれる当代随一の学僧として尊敬を集めます。

しかし自分では己のことを「愚痴の法然」と呼び、そんな自分が救われる道は果たしてあるのだろうかと求道し続けます。そこには仏道に入って功徳を積むことなく、戦で命を落とした父親が救われる道を探したいという思い。ひいては全ての人々が平等に救われていく道がないのだろうかと探し求めていたのではないでしょうか。

そして法然上人は中国の善導大師が記した「順彼仏願故(彼の仏の願に順ずるが故に)」という言葉に出逢います。「念仏を称えることは、仏の願いに適ったことなのだ」と感動し、その教えは浄土宗・浄土真宗となって今に受け継がれています。

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2016年10月の法語 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
10月は以下の8行をお話させて頂きました。

源信広開一代教 偏帰安養勧一切 専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

インド、中国と進んできた浄土七高僧も、今月から日本の僧侶になります。
第六祖は源信和尚(げんしん かしょう)。

源信和尚は現在の奈良県に生まれ、幼少期から非凡さを発揮し、9歳から比叡山で仏教を学ぶことになります。そしてなんと数え年の15歳、現在の年齢にすると満14歳で天皇の前で仏教を講義するという大役を仰せつかります。

14歳というと今は中学2年生ぐらいですから、どれだけの天才であったかが伺い知れます。また14歳というと、水泳の岩崎恭子さんが金メダルととったのが同じく14歳。「今まで生きてきた中で一番幸せです」という言葉が印象的ですが、若き源信和尚も同じような嬉しい、晴れがましい気持ちになったことでしょう。

天皇から金メダル……じゃなくて褒美の品を頂いた源信和尚は、故郷の母にそれをおくりますが、しばらくすると手紙が添えられた品々がそっくり戻ってきます。その手紙には…

後の世を 渡す橋とぞ 思ひしに 世渡る僧と なるぞ悲しき
まことの求道者となり給へ

この手紙を見て、源信和尚は大きなショックを受けます。
為政者に認められ、褒美の品をもらい、天にも上るような気持ちであったところを、母から冷や水を浴びせられ本来の目的を思いだしたのです。

それからは栄華栄達をきっぱり捨て、比叡山の横川という場所で隠遁生活を送り、ひたすら仏道修行に明け暮れます。そして壮年となった源信和尚は、数十年ぶりに故郷を目指します。待っていたのは、死を目前にした母でした。その母に息子は、今まで学んできた仏道を伝え、母は安堵の中、息を引き取っていきました。

もちろん源信和尚の才能は高いものでしたが、母の厳しい愛情があって、それは花開きました。


さて、本題の正信偈に戻りましょう。
源信和尚が仏教を広く学び、その中から浄土の教えに帰依したことが書かれています。
念仏以外の諸行を修する者は、浄土の中でも外れである「化土」に往生し、ただ念仏する者は真実の浄土である「報土」に往生すると説かれました。

また、極重の悪人はただ念仏せよ、とも説かれます。
続いて「我もまた」と書かれていますので、自分と悪人を切り離すわけではなく、むしろ自分を悪人の側として見ているようです。
その「我」も阿弥陀仏の光に照らされている。煩悩が自分の目を遮ってその光を見ることが出来ないかもしれないが、それでも光明は常に私を照らしている、と結ばれています。


最後の部分ですが、当時は臨終の際に浄土往生する者には、奇瑞が表れるという考えがありました。
ですので、阿弥陀仏に照らされているのだよ、と伝える時にも、聴く者はなんらかの目に見える変化を求めたのではないかと思います。
それに対し源信和尚は、阿弥陀仏の光は目に見えないかもしれないが、それは私たちの目が煩悩で曇っているからだ。心配しなくて良い、と仰ったのです。

遠く故郷で自分を願い続けてくれる母。
その母の姿が、阿弥陀仏に重なったのではないでしょうか。

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2016年9月の法語 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
7月8月とお盆でお休みでしたが、9月は以下の16行をお話させて頂きました。

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入 万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引 一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁 開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽

今月は中国の道綽禅師、そして同じく中国の善導大師の段になります。
正信偈の後半は浄土七高僧について1人ずつ書かれているのですが、第1祖 龍樹菩薩から第3祖 曇鸞大師までは12行の文量が割かれています。しかし第4祖以降は8行になっていますが、記された親鸞聖人がどういう意図を持たれていたのかは不明です。

道綽禅師は、三信と三不信について慇懃、つまり非常に丁寧に説かれたと書かれています。
三信は「淳心(純粋に聞く)・一心(疑いなく聞く)・相続心(続けて聞く)」のことで、三不信はその逆で「素直に聞けず、疑って聞き、持続しない」ことを言います。


続く善導大師は、親鸞聖人の師である法然上人が特に深く帰依をし、浄土宗のことを「善導宗」と呼ぶ場合もあったほどだそうです。親鸞聖人の語録『歎異抄』にも、教えの流れが阿弥陀仏→お釈迦さま→善導大師→法然上人→自分(親鸞聖人)と繋がっていると書かれているので、親鸞聖人も帰依をされていたのではないでしょうか。

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2016年6月の法語 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
6月は以下の12行をお話させて頂きました。

本師曇鸞梁天子 常向鸞所菩薩礼 三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願 往還廻向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃 必至無量光明土 諸有衆生皆普化

先々月、先月はインドの七高僧をご紹介してきましたが、今月からの3名は中国の高僧です。
今月は親聖人のお名前の一部にもなっている曇大師(どんらん だいし)です。

ここは正信偈の中でもドラマチックな部分なストーリーが描かれています。

曇鸞大師は「梁」の国の天子(皇帝)が菩薩と敬うほどの高僧でした。その曇鸞大師は仏教教典の研究に心血を注いでいましたが、病に倒れます。
「道半ばにして死ぬわけにはいかない」と考えた曇鸞大師は、道教の道士であり、当時随一の医学者・科学者であった陶弘景から不老長寿の秘法を学びます。

「不老長寿の秘法」と聞くと現実離れしていますが、陶弘景は医術者でもあります。おそらく曇鸞大師が学んだのは健康法ではなかったのでしょうか。

その教えを学び、意気揚々と歩む曇鸞大師の前に、インドからやってきた菩提流支が表れます。正信偈には「三蔵流支」と書かれていますが、三蔵とは仏教に広く通じた高僧を指し、またインドの言語から中国語にお経を翻訳した高僧の総称で、歴史上に多くの「三蔵法師」がいらっしゃいます。

さて、菩提流支は「少しばかり寿命を延ばしたところで、それが何だというのだ。この浄土の教えこそが、真の不老長寿の法である」と諭され、菩提流支は学んできた教えを焼き捨ててしまいます。

私などは、せっかく学んできた健康法なのだから、それはそれで利用すればいいんじゃないかと思ってしまいますが (^_^;)  きっと曇鸞大師と菩提流支の間には熱いやりとりがあったのでしょうね。

(以下妄想)
曇鸞大姉「やあ、菩提流支さん! 私はもっと仏教を研究するため、不老長寿の教えを学んできたよ!」
菩提流支「えぇ!? 5年や10年ばかり寿命が延びたからって何だって言うんです! 私たち仏道を歩む者は、生き死にの問題を超える道を求めてるんじゃ無いんですか! 浄土の教えにはそれが書いてあるんですよ!!」
曇鸞大師「そ、そうだな! もっともだ!! よし、不老長寿の法なんか焼いちゃうぜ!!」

とまあ、こんな調子ではなかったでしょうが、以降 曇鸞大師は浄土教の研究に没頭していくことになります。その中に、5月でご紹介した天親菩薩の著書を研究対象とするのですが、これは七高僧がそれぞれ独立した存在ではなく、先哲の教えを受け継ぎ発展させてきたことが示されています。
阿弥陀仏の教えをお釈迦さまが説き、七高僧が受け継ぎ、親鸞聖人に繋がっているという師資相承の流れが表されているのです。

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2016年5月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
5月は以下の12行をお話させて頂きました。

天親菩薩造論説 帰命無礙光如来 依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力廻向 為度群生彰一心 帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死園示応化

今回は浄土七高僧の第二祖、インドの天親菩薩の徳を讃える部分です。
天親菩薩または世親菩薩とも呼ばれる、1600〜1700年ほど前もインドにいらっしゃった仏教僧です。

今回いろいろと調べていたら、私が坊さんになってずっと勘違いしていたことを見つけました!
「横超」という言葉があります。これは親鸞聖人も浄土の教えを説く際に使っていた言葉なのですが、仏教の分類方法のひとつで「竪出・竪超・横出・横超」の4つに分けられています。

「竪」は自分の力で悟りを目指すこと。
「横」は仏さまの力で悟りを得ること。
「出」は一歩ずつ悟りに進むこと。
「超」は一瞬にして悟りを得ること。

それで、何を勘違いしていたかというと…
「竪」「堅」だと思っていたのです!
今までは、なぜ「よこ」に対するのが「かたい」なんだろう? と思っていたのですが、よくよく見れば「竪琴」の「竪」。つまり「よこ」に対していたのは「たて」だったのです。今まで何と迂闊だったのでしょう… (>_<) 


さて、気を取り直して進めていきます (^_^;) 
お釈迦さまの悟られた道は「竪出」で、また仏教のスタンダードはこの道です。一所懸命に修行して、一歩一歩着実に悟りを目指します。

しかし誰もがその道に邁進できるわけではありません。修行も学問も出来ない人々のために開かれた道が、お念仏の道です。阿弥陀仏に全てを任せようという気持ちになった所で、迷いの世界から悟りの世界へと「横超」、すなわち「横っ飛びに超えていく」と天親菩薩は説かれています。


そして浄土に往生した者は、再び私たちの世界に還ってきて、神通力によって人々を救う、とも説かれています。よくご葬儀などで「安らかにお眠りください」と言うことがありますが、実はゆっくり休んでなどいないで、私たちのために働いてくださっているというのです。

身近な例をあげれば、亡くなった人のことを思い出して、大切なことにハッと気づくようなことがあったとします。もちろん自分が頭で考えて気づいたというのが本当のところかもしれません。しかしそういう時、私たちは『亡き人に導かれ、気づかされた』と受け止めることがあります。これはつまり、亡き人が「私」の為に働いて下さったという、こころ豊かな受け止めではないでしょうか。

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2016年4月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
4月は以下の20行をお話させて頂きました。

弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

今月から正信偈は後半、浄土七高僧の部分に入っていきます。
浄土七高僧とは、お釈迦さまが説かれた浄土の教えがご自身に至り届くまで、どのような方々がバトンを繋いで下さったのかと親鸞聖人が見定めた、インド・中国・日本の7名の高僧のことを指します。

最初はインドの龍樹菩薩。
お釈迦さまから500〜600年ほどあと、南インド(お釈迦さまは北インドの方です)に生まれた方で、第二の釈迦と呼ばれるほど優れた人物であったようです。

また大乗仏教の大成者とも言われ、「八宗の祖師」として浄土真宗のみならず、多くの宗派で尊崇を集める方でもあります。

龍樹菩薩は「難易二道」を説かれました。これは、自分の力で修行をし悟りを目指す仏道を、自分の足で歩む陸路の旅にたとえ、困難が伴うものと表現されました。
それに対し、阿弥陀仏の誓願に任せて往生する仏道は、船に乗れば目的地に到着する船旅にたとえ、楽しく易しいものと表現されました。

後半に「自然即時入必定」とありますが、これは「おのずから、ただちに正定聚(悟りを得ることが定まった仲間)に入る」という意味です。この「おのずから」が大切な部分で、船に乗ってしまえば、その船室で船酔いにもがき苦しもうと酒に酔って前後不覚になろうと、必ず目的地に到着します。

船酔いや酒酔いは、この世で生きる私たちが、煩悩に翻弄され苦しめられることの喩えです。どれだけ煩悩に苦しんでも、阿弥陀さまが舵を持つ船は、必ず目的地である浄土に辿り着くのです。

そんな阿弥陀様に対し私たちが出来ることは「応報大悲弘誓恩」、つまり大いなる慈悲の恩に報いることだけ。それはつまり、南無阿弥陀仏のお念仏を称えるしかないと示されているのです。

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2016年3月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
3月は以下の16行をお話させて頂きました。

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
摂取心光常照護 己能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華

今回ご紹介する部分の2行目には、親鸞聖人の思想の中でも際立って光る「不断煩悩得涅槃」という一文があります。釋尊に始まった仏教は、「煩悩を断って涅槃(悟り)を得る」ということを不動のメインテーマとして扱ってきたのであって、いかに煩悩を断つかの手段の違いが「宗派」となって分かれてきました。

しかし親鸞聖人の思想ははここでコペルニクス的転回をします。「不断煩悩得涅槃」つまり「煩悩を断たずして涅槃を得る」と示されているのです。
また前の行には「能発一念喜愛心」と、その唯一の条件である「信心を得る」ことについて説かれていますが、次の行に「凡聖逆謗斉廻入(聖者も凡夫も、五逆罪を犯す者も仏法を謗る者も救われる)」と書かれていて、阿弥陀仏の救いに一切の洩れがないことが示されているのです。


ただ。
阿弥陀仏より賜った「信」を得て、煩悩を有する身のまま悟りを得ることが決まったとはいえ、では今現在の私たちが仏と同じ立場かというと、それは違います。やはり仏ならぬ私たちの心には、煩悩がムクムクと雲のように湧いてくるのです。
「摂取心光常照護」…阿弥陀仏の救いの光が常に届いていたとしても
「貪愛瞋憎之雲霧」…煩悩が雲となってその光を遮ります

しかしどんなに雲や霧が立ちこめて薄暗くても、日中であれば真っ暗になることはありません。太陽の光は大地に降りそそいでいるのです。
「雲霧之下明無闇」…雲が厚くても、光は雲を突き抜けて地に届きます


断たねばならぬ煩悩を断たずして涅槃を得るということは、救われる可能性のない多くの民衆が平等に救われていく道を示したことでした。今月書かれている部分は、親鸞聖人の思想の中でも真骨頂であると、私は受け止めています。

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2016年2月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から題材が取られています。
ですので、カレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈を部分的にお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
2月は以下の8行をお話させて頂きました。

本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言

最初の4行で、阿弥陀仏が私たち衆生をいかに救うかが説かれています。
五正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)のうち、称名こそが阿弥陀仏の御心にかなう真実の行であるとし、「正定業」と呼びます。ちなみに他の4つを補助的な行ということで「助業」と呼びます。

これは阿弥陀仏の四十八願のうち、最も大切な十八番目の願「至心信楽の願」を要因としています。「至心」とは阿弥陀仏が衆生を救いたいと思う心、「信楽」とは阿弥陀仏の本願を疑わない心です。そしてそれに付随する「欲生」は浄土に生まれたいと願う心です。

※十八願 たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して我が国に生ぜんと欲いて乃至十念せん。もし生ぜずは正覚を取らじ。

また、私たち衆生が正定聚(仏になる事が定まる)の位につく要因は、十一番目の願「必至滅度の願」に説かれています。

※十一願 たとい我、仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ。

後半の4行では、如来(ここではお釈迦さま)がこの世に生まれた最も大切な目的(出世の本懐)は、この阿弥陀仏の誓いを説くためであったとしています。

そして、自らの力で悟る事が出来ない、濁った時代に生きる人々に対し、どうかこの教えを信じてほしいと訴えかけているのです。

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2016年1月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から題材が取られています。
ですので、カレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈を部分的にお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
1月は以下の16行をお話させて頂きました。

帰命無量寿如来 南無不可思議光 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方 普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照


まず最初の2行で親鸞聖人は、阿弥陀如来への帰依の心を重ねて申し上げています。
「帰命」も「南無」も、帰依することを表し、対象を信じ全てをお任せするお心を表しています。
「無量寿如来」も「不可思議光(如来)」も、阿弥陀如来の異名です。

阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が、師である世自在王仏のもとで様々な如来の浄土を見せて頂き、その上で自らの浄土を建立する誓いをお建てになりました。
その誓いを建てるのに五劫もの長い時間がかけられ、自らの名前を呼ぶ(お念仏)者を必ず救うと重ねて誓われました。

その誓いが成就し、法蔵菩薩は阿弥陀如来と成られたのです。
そして12の光にまつわる異名の通り、阿弥陀如来が放つ光は、全ての国々、全ての人々に届き渡っています。


大まかな意味としては以上の通りです。
実は写経会でも正信偈を扱っていて、現代語訳は参加者にお渡ししています。
でも文字をただ読むのと、実際に僧侶の口から解説を聞くのは違いますね、と両方に参加している方から仰って頂きました。

それを聞いて、やはり浄土真宗のお寺は、法を聞く場所、聞法の道場なのだということに、改めて気づかせて頂きました。

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2015年11月の法語 [月々の法語]

如来の本願は 称名念仏にあり
The working of Amida’s Primal Vow is in the intoning of Namo Amida Butsu.
藤元 正樹

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。11月は真宗大谷派 兵庫県の円徳寺住職 藤元正樹師のお言葉です。ちなみに10月の言葉を発した栗山力精師のお寺も、偶然ですが円徳寺という名前です。


 非常にシンプルなお言葉で、浄土真宗の教えが端的に述べられています。つまり「阿弥陀如来が一切衆生を救いたいとお建てになった本願は、私たちが念仏を称える事で救われていく道をお示しになったことである」ということです。

 しかしシンプルすぎる教えは、かえって疑問を生む事があるのではないでしょうか。例えば、「念仏を称えればいいと言うが、何回称えればいいのだろうか? 多い方が良いのだろうか? 少なくても大丈夫だろうか?」という疑問や、「どういう心持ちで念仏を称えればいいのだろうか? やはり真剣に集中して称えるべきだろうか? それとも他の事を考えながら称えてもいいのだろうか?」といった疑問です。


 最近「安心論題」というものについて学んでいます。読み方は「あんしん ろんだい」ではなく「あんじん ろんだい」で、浄土真宗の教えの上で誤解しやすい部分、押さえておくべき部分について徹底的に論じられたものです。

 たとえば第5章は「信心正因」と題されています。これは、「阿弥陀仏を信じて念仏を称えれば救われる」という言葉について、信じる事と称える事、どちらが大切なんですか? という問題について考えたものです。長くなるので詳細は省きますが、ここでは信心が大切だとされています。信心が因となって救いが成立し、それを喜び感謝して出てくる声がお念仏であるという捉え方です。


 ところが今月の言葉は「如来の本願は称名念仏にあり」とあります。これだけを見ると信心より念仏の方が大切なようですが、ふと英訳を見てみると「working」という語に目が行きます。なぜここに「work=働く」の現在進行形があるのでしょうか?

 それは阿弥陀如来というものが決して現実的な存在としてあるのではなく、大切な真実を私たちに伝えんがための方便であって、私たちがその真実に向き合う時=真実が私たちに「はたらきかけている」時だということです。

 真実はいつも変わらずそこにあるのですが、普段私たちはそれを見ようとしません。しかし様々な縁が重なって真実に目が向く時を「如来が働く時」と表現するのではないでしょうか。如来に「はたらき」かけられて念仏が口から出てきますので、やはり信心が因ということになるのです。

 如来、本願、念仏…それらを別々に考えると様々な疑問が湧いてきます。でも本質的にはそれらはひとつのもので、あれこれ考えるべきものではないのでしょう。法然上人が「愚者になりて往生す」とおっしゃった言葉が耳に響いてきます。

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